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 「広島を焼爆」「若干の損害を蒙(こうむ)った模様」……

 広島に原子爆弾が投下された翌日、朝日新聞の記事(東京本社発行版)はごく短かった。

 それは、世界で初めて起きた核戦争の悲劇の始まりだった。3日後、長崎の街も壊滅する。

 ピカッと光った瞬間、放射線は何十万人もの体を射抜いた。ドンという爆発で飛び散った放射性物質は「黒い雨」となって降り、爆心地周辺に漂った。

 それから75年。国の援護の外に置かれた「黒い雨体験者」を被爆者と認めた裁判でも、降雨エリアは確定していない。

 ■放射線被害の「発見」

 あの日、きのこ雲の下にいた人々も、直後に原子野に足を踏み入れた人々も、誰も原爆の本当の恐ろしさを知らなかった。

 放射線が時を超えて人間を苦しめ続けることなど、ふつうの市民は知るよしもなかった。

 その脅威が広く知られるのは戦後9年目の1954年。米国が太平洋のビキニ環礁で強行した水爆実験によってだった。

 遠洋漁船・第五福竜丸が「死の灰」を浴び、被曝(ひばく)した乗組員がのちに死亡する。「原爆マグロ」は食卓にいらないと、東京・杉並の主婦らが立ち上がって反核運動のうねりが起きた。

 その翌年、初の原水爆禁止世界大会が広島で開かれた。白血病が急増していた被爆地では、時を同じくして、「千羽の折り鶴」の逸話で知られる佐々木禎子(さだこ)さん(当時12)が亡くなる。

 爆風と熱線の惨禍を生き抜いた被爆者の多くも、自らの放射線被曝の恐怖に気づかされる。

 そして56年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)ができ、被爆の後遺症への補償を国に求める運動が始まった。

 その宣言文「世界への挨拶(あいさつ)」はうたう。「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません」

 核兵器を絶対悪とし、国や地域を超えて非人道性の撲滅を訴える「ヒバクシャの思想」が、ここに芽を吹いた。

 ■強まる悲観と危機感

 「ノーモア・ヒバクシャ!」

 米ソ冷戦下の82年に国連の舞台でそう訴えて以来、被爆者は過酷な体験の証言と思いを国際社会へ投げかけてきた。

 それは国際世論に広がり、2017年、核兵器の使用も保有も違法とする核兵器禁止条約の採択につながった。

 だが、核保有国と日本を含む同盟国は条約に背を向け続けている。さらに大国は、新たな核軍拡へも進み始めている。

 被爆者たちが悲観を強めるのは無理からぬことだ。朝日新聞が全国の被爆者2千人余に実施した「被爆75年アンケート」(回答768人)は、もどかしさと焦りを浮き彫りにした。

 核兵器は廃絶される方向にないと考える人は半数以上、核が使われる危険性はこの5年で増したと思う人が6割を超えた。米国の首脳が、「核なき世界」を唱えたオバマ氏から、「力の平和」を掲げるトランプ氏になった影響もあろう。

 だが、厳しい視線は自国にも向けられている。日本政府は核兵器廃絶に積極的だと思わない人が、8割近くに達した。日本は核禁条約を批准すべきだという答えが7割超。条約への不参加は「世界史の中で恥を残す」と嘆く92歳の男性もいた。

 平均83歳、過去最少の13万6682人。被爆75年とは、核の恐ろしさを身をもって伝えてきた人たちがいなくなる時代の訪れを意味する。同時に、被爆者の危機感を次世代は我がことにできるかが問われている。

 ■思想を継ぐ担い手に

 この節目の年、世界は底知れぬコロナ禍に見舞われた。

 「世界中の人々が同じ危機に直面し、みんなが当事者だと自覚するきっかけになった」

 田上(たうえ)富久・長崎市長は5月、研究者との対談でそう語り、この経験が核廃絶運動の新たな出発点になるとの考えを示した。

 被爆地での平和学習や証言を直に聞く機会をコロナ禍は奪ったが、逆にこれを機にオンラインの活用が加速している。

 広島平和記念資料館と長崎原爆資料館が7月下旬、初めてSNSのライブ配信で被爆資料を紹介したところ、世界の若者ら6千人超が見つめた。

 国民学校の亡き学友らと一緒に使った鉛筆約30本を広島の資料館に託した被爆者の新見博三(にいみひろそう)さん(81)は言う。「世界中の若い世代にヒロシマを正しく知ってもらうことが力になる」

 人類が核の時代に突入して75年。核保有国、そして日本政府すらもがいまだに大量破壊に基づく核抑止論に拘泥する現実は深い失望をさそう。

 しかし一方で、被爆者らの積年の訴えは、非核国に、NGOに、世界市民に、着実に浸透を続けてきた。核禁条約に結実した国際的な連帯こそが、被爆者が築いた貴重な遺産である。

 新たな世代もこの礎の上で、非人道を拒み、「人間の安全保障」を求めるヒバクシャの思想を継ぐことができる。核なき平和の実現は、一人ひとりの目覚めと行動にかかっている。

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