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 私たちの習慣が大きく変わりそうです。行政手続きのデジタル化を進める政府が押印をなくそうとしています。役所に出す書類からは原則なくなりそうですが、手続きがすぐに便利になるわけではありません。いま話題の「脱ハンコ」について考えてみます。

 ■行政手続き99%で廃止へ

 「揺りかご」から「墓場」まで、さまざまな場面で求められてきたハンコが、いらなくなりそうです。政府は出生届や死亡届はもちろん、転入・転出届、学校と保護者の連絡手段、婚姻・離婚届から押印をなくそうとしています。

 9月に発足した菅義偉政権は、役所にいかなくてもあらゆる手続きができる行政のデジタル化を掲げています。脱ハンコを急ぐ河野太郎・行政改革相は、約1万5千ある行政手続きの99%から押印を廃止する方針です。千葉市や福岡市、岡山県など自治体でも見直しが進んでいます。

 なくなる手続きの大半が印鑑登録をしていない「三文判」といわれる認め印によるものです。ハンコは申請者の意思を確認できる手段として重宝されてきましたが、簡単に手に入る認め印では意思確認の手段として不十分だとされています。自治体や法務局に登録する印鑑証明制度は残り、不動産の所有権移転や商業・法人登記などでは実印が必要です。

 ただ、脱ハンコだけでは行政のデジタル化は達成できません。「お役所仕事」といわれる前例踏襲や事なかれ主義を変え、業務のプロセスそのものを見直す必要があるからです。霞が関の省庁や全国の自治体ごとにバラバラなシステムを、まとめることも求められます。政府は今後5年で自治体のシステムを統一・標準化する考えですが、多額のコストをだれがどう負担するのかは決まっていません。

 本人確認の手段として政府が期待するマイナンバーカードも、普及率は2割と遅れています。今の機能では持つことのメリットが乏しく、政府は健康保険証や運転免許証と一体化して普及を図ろうとしています。

 オンライン化についていけない人たちをどう守るのかも大事です。インターネットを使わない高齢者らもたくさんいます。業務の効率化の名の下に、デジタル弱者が切り捨てられることはあってはいけないでしょう。(編集委員・堀篭俊材)

 ■押印の廃止や存続が決まった手続き

 【廃止】

 ・住民票の写しの交付請求

 ・戸籍謄抄本の交付請求

 ・婚姻届、離婚届、出生届、死亡届

 ・住民票の転入・転出届

 ・給与所得者の扶養控除等申告書など(年末調整)

 ・所得税の申告など(確定申告)

 ・児童手当の受給資格及び所得に関する現況の届出

 ・自動車の継続検査(車検)

 ・車庫証明や道路使用許可の申請

 【存続】

 ・不動産登記の申請

 ・商業・法人登記の申請

 ・相続税の申告

 ・自動車の新規・移転・抹消登録

 (件数の多い主な手続きをまとめた)

 ■論点ずれてる/むしろ好機

 デジタルアンケートに寄せられた声の一部を紹介します。

 ●認め印は本人確認にならない

 実印は本人証明になり、あっても良いと思う。いわゆる認め印は全く必要とは思わない。誰でも鈴木、山田、佐藤などのハンコは購入できる。これで本人確認になるはずがない。サインが余程本人確認に有効である。ただ、利き手が負傷した時にどうするかは決めておく必要があると思う。(長野県・60代男性)

 ●荷物の受け取りには便利

 荷物の受け取りなどではサインするよりハンコの方が早くて便利な気がします。本人確認の方法としてどうかという意見もありますが、サインに変えたところで同じですし、いちいち荷物の受け取りで身分証明書を提示するのもなんだかなぁという気もします。(大阪府・30代男性)

 ●電子化の妨げになる

 物としてのハンコは、なんだかかっこいいし愛嬌(あいきょう)もあって好きで、ぜひとも文化として残ってほしい。しかし、認証のためのツールとして考えると、セキュリティー性は低く、電子化の妨げになる。もともとは似たような書類に似たようなサインを何度もする手間を省くためにあったのだと思うが、そういった作業の効率化は今や電子化によってなされるべきだ。(神奈川県・20代男性)

 ●信用できない政府

 ハンコをなくし電子手続きにするためにも本人確認の方法としてマイナンバーカードを普及させたいようですが、政府が信用できないのでカードを取得しない人も多いと思う。(東京都・60代女性)

 ●なりすましが怖い

 婚姻届や離婚届でハンコをなくす方向というニュースを目にしましたが、なりすましが怖いです。もしストーカー犯に勝手に婚姻届を出されたらなどと不安要素があります。(東京都・30代女性)

 ●ほっこりする使い方も

 日記や手帳に、自分なりのマークとしてスタンプをペタッと貼ることや、テストの解答用紙に「よく出来ました」のハンコがあるのはほっこりします。ハンコというものは複製可能であり、IDではない使い方をすれば良いと思うのです。(愛知県・50代女性)

 ●意思確認が必要か、議論は?

 どうもハンコをなくすことが、手段でなく目的になってしまっている。なくせば全て良しで、そもそもその意思確認プロセスが必要か否かについて議論されていないのは本末転倒な気がします。「本人の意思確認がどこまで必要か?」について、それぞれのシーンで判断すべきものだと思います。(大阪府・40代男性)

 ●車購入に実印不要では

 子どもの時からハンコって何の意味があるのだろうと感じていた。実印のような登録しているハンコならまだしも、認め印でいいものはなくしたほうがいい。だれでも勝手に押せる。銀行印もなくしてほしい。ハンコ持って出かけたくない。車買うときに実印が必要というのもやめてほしい。(香川県・30代男性)

 ●大切に使う時代に戻る

 産地の方々が脱ハンコに反対されているが、むしろチャンスだと思う。100円ショップで手に入るような大量生産のものがなくなるだけで、実印などの大切なハンコは残すべきだし、実際にそういう意見が大半のように感じる。軽く見られてきた時代が終わり、昔のように重要性を再認識し、一生モノのハンコを大切に使う時代に戻るのだと思う。(海外・40代男性)

 ●プリントアウトするのが無駄

 仕事上でオンライン化が進まない要因の一つ。せっかく電子で記入しても押印のためにプリントアウトするのが無駄。他人の認め印を本人の了解を得て代わりに押す場面も多々あり、押印行為が形骸化しており不要。(埼玉県・30代女性)

 ■忍耐 なくす議論、拙速 全日本印章業協会・福島恵一副会長

 いまの気持ちを印章に彫るとすればもう「忍耐」の2文字です。脱ハンコという言葉がひとり歩きして、「ハンコはいらなくなる」と誤解するお客様が増えています。お店ではすでに風評被害が起きていて、やがては売り上げが激減してしまうのではないかと心配しています。

 1873(明治6)年の太政官布告で重要な書類に実印を押すようになって印鑑登録制度が広がり、長い時間をかけて定着してきました。確かにこれまでは、押印を求める行政手続きが多すぎたとは思います。

 ただ、行政のデジタル化が進まないからといって、ハンコを悪者にするような発言や行動を閣僚たちが繰り返すのはいかがでしょうか。急にハンコをなくそうという今回の議論はあまりに拙速です。

 別にデジタル化に反対しているわけではありません。一番の問題はペーパーでしょう。紙がオンライン化を阻んでいるのであって押印が最大の阻害要因ではない。紙をなくして行政システムのデジタル化を淡々と進めればいいだけで、なぜそこに「脱ハンコ」という言葉が必要なのか、その真意がわかりません。

 文化として残れといわれたら、業界はもうやっていけません。零細業者が多い全日本印章業協会の協会員は現在約900。この約40年で5分の1以下に減っています。ペーパーレスが進み、人口減少で販売本数は減り、後継者難で苦しい。そこに今回の脱ハンコが追い打ちをかけています。

 もちろんコロナ禍で新しい日常が始まり、私たちも変わらないといけません。ネット販売を強化したり、SNSでハンコの魅力について発信したりする必要があります。業界を挙げて努力し、デジタルとハンコが共存できる社会をめざします。

 ■ムダ廃止 役所の仕事、見つめ直す必要 庄司昌彦・武蔵大教授(情報社会学)

 手彫りから始まったハンコは複製が難しかったので、とても信頼のおける存在でした。でも昭和の時代には大量生産され、100円ショップでも手軽に買えるようになりました。いまでは押された印影をスキャンしてデジタルデータにすれば、だれでも簡単に複製できます。そうなると信頼度はどうしても落ちてしまいます。

 さらにコロナ禍で「3密」を避けるために、人同士の接触を減らさなければならなくなりました。押すためだけに、やむなく出社するような人をなくさなければなりません。

 民間だけではなくて、まずは中央官庁や自治体から減らすとりくみが必要なんです。

 押印がこれまで求められてきたのは、行政に限らず社会全体に失敗や予想外のことを恐れる「事なかれ主義」があったのだと思います。リスクとメリットのバランスを見直さないと、オンライン化は実現できません。

 ハンコに代わる手段とされるマイナンバーカードが普及しないのは、政府が個人のデータを管理することに対する国民の抵抗感が強いからでしょう。過去に年金記録問題や公文書の改ざんがあったので当然といえます。国民の信頼感を高めるためには、デジタル庁をつくる議論の中に、個人情報や公文書を厳密に管理することも入れるべきです。

 行政のデジタル化を実現するには、押印以外にも郵送やFAXなど紙や対面をベースにした手続きも見直さないといけません。いまの官庁や自治体の仕事の仕方や考え方を変えていく必要があります。

 単にデジタルに置き換えるだけではダメで、そもそもその手続きが本当にいるのかどうかを見つめ直す。行政からムダをできるだけなくす努力も求められているのです。

 ◇結婚や離婚、家の購入など大事な決断をするときはハンコを押す方がいい――。こんな声も数件寄せられ、なるほどと思いました。約30年前、就職するときに母からもらったハンコは、いまでも決意の印として大切な契約などに使っています。人生の節目でちょっと立ち止まる。押印には意外な役割もあるようです。

 今年初め、なんでもオンラインで手続きできるデンマークを取材しました。「クリック離婚」も認められていますが、高い離婚率を背景に、別れようとする夫婦に一時3カ月の冷却期間を設けていました。オンライン化が社会にもたらす影響については議論が絶えません。

 脱ハンコもマイナンバーカードも手段であって目的ではない。ムダな手続きを残しては意味はなく、便利でも失うものもあります。菅政権がめざすオンライン社会の姿に目をこらさなければなりません。(編集委員・堀篭俊材)

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