(美の季想)紅白の世界 雪が奏でるシンフォニー 高階秀爾=訂正・おわびあり

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 今から2年ほど前、元号が平成から令和へと変わる前、新元号は『万葉集』に述べられている1300年昔の「梅花の宴」の記述に由来するものだという解説があった。

 事実、当時大宰府の帥(そつ)(長官)の邸宅に、大宰府の所管する地域の官人たちが集まって、盛大な梅見の宴が開催された。その時、宴の興趣を盛り上げるため、参会者それぞれに梅花を主題とする歌を詠んで披露せよという要請がなされた。何とも優雅な宴会である。

 『万葉集』巻五にこの時の「梅花の歌三十二首」が収められているが、それとともに、当時の状況を説明した「序」が添えられている。当日はきわめて穏やかな気候であったらしい。「序」はまず「天平二年正月十三日」と日付を述べた後に、「時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ」と続く。この「令月」「風和」から「令和」が生まれてきた。つまり、この「梅花の宴」は、同時に新年の宴会でもあったのである。

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 もともと梅樹というのは渡来植物で、当時にあっては貴族の邸などに植えられていたという。大宰府の長官であった大伴旅人の邸は、その舶来の梅樹で飾られていたのであろう。しかも、その旅人邸の梅も含めて、万葉時代の梅はすべて白い花をつける、つまり白梅であった。「梅花の宴」の歌のなかで、旅人の「わが園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも」をはじめ、「妹(いも)が家(へ)に雪かも降ると見るまでに……」(小野氏国堅〈くにかた〉)など、梅花の散る様がしばしば降る雪にたとえられているのは、そのことと無関係ではない。

 後に紅梅が登場してからは、光琳の「紅白梅図屏風(びょうぶ)」に見られるように、紅白の対比が賑(にぎ)やかな慶事と結びつき、現代の紅白歌合戦にまでその華麗さを受け継がせている。

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 絵画の世界で、この紅白の鮮烈な対比を主調とした季節の絵といえば、歌川広重晩年の名作『名所江戸百景』「冬の部」の冒頭を飾る「浅草金龍山」がまず思い浮かぶ。もっとも、このような季節ごとの作品配列をしたのは広重ではない。広重は、移り易(かわ)る季節に応じて人々が集う行楽地や地域の祭礼、年中行事、働く姿などを主題とした「名所絵」を、思いつくまま次(つ)ぎ次ぎと生み出し、118点ほど制作した時点で世を去った。それに二代広重による「赤坂桐畑雨中夕けい」と、全体を春夏秋冬に分類した豪華な「目録」を加えて、全120点の揃(そろ)い物としてまとめられたのは、広重の没後のことであった。

 「浅草金龍山」は、浅草観音として親しまれている聖観音を祀(まつ)った浅草寺のことで、画面は、浅草寺の総門である雷門を通して仲見世の奥を見渡した情景を描き出す。一番手前の雷門は、左方の門の一部、下方の敷石、そして上方の大提灯(ちょうちん)で直ちにそれとわかる。現在の雷門は焼失後再建されたもので、大提灯には「雷門」の文字が記されているが、広重の画面では奉納者の住所を示す「志ん橋」の文字が見える。遠景には、半ば以上雪に覆われた並木で隠されている宝蔵門、さらにその右奥に五重塔が描かれる。参詣(さんけい)者の列が続く仲見世は、現在の状況から見れば思い切って広く、広過ぎるほどに思われるが、それは薄暗い空から降る雪、ずっしりとした屋根の雪、樹枝が交錯する並木の雪、道行く人の笠の雪など、さまざまな雪が響かせる明澄な白を強調するためであったろう。白のシンフォニーとでも言うべきであろうか。(美術史家・美術評論家)

 <訂正して、おわびします>

 ▼1月12日付「彩る」面「美の季想」の記事の写真説明で、奈良県立美術館「広重の名所江戸百景」展で展示する歌川広重「名所江戸百景 浅草金龍山」について、「展示は後期の2月16日から」とあるのは「展示は前期の2月14日まで」の誤りでした。1月初めの取材時は後期の展示予定でしたが、美術館が調整し、前期に変更されました。