(社説)ビキニ核実験 船員が憂えた未来の命

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 67年前の3月1日、米国が太平洋ビキニ環礁で水爆実験を行い、日本漁船の乗員や近くの島々の住民らが巻き込まれた。

 静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」は、操業中に「死の灰」を浴びた。その船員の一人として、核廃絶を訴え続けた大石又七(またしち)さんが亡くなった。

 享年87。体験を語る証言活動を国内外で700回以上重ねた。「まだまだ言いたいこと、伝えたいことがある」。最近もそう語っていたという。

 核兵器の罪をじかに知る語り部は年々、少なくなっていく。だが人類が再び過ちを犯す恐れは今も消えず、むしろ核軍拡と拡散の流れが強まっている。

 大石さんらが後世に残そうとした遺志を胸に刻むとともに、「核なき世界」をめざす道筋を真剣に考えねばなるまい。

 ビキニ事件が起きたのは、広島・長崎の原爆から9年後の1954年。米ソ冷戦下の核競争が激化した時代だ。

 福竜丸の乗員は23人。無線長が約半年後に亡くなり、さらに早世する仲間が相次いだ。

 「訴え続けなければ、ビキニ事件はやがて消えてしまう」。大石さんは被曝(ひばく)の影響とみられる症状や差別に苦しみながらも沈黙を破り、訴え続けた。

 ビキニ事件は原水爆禁止の国内世論を高めた一方で、日米両政府の政治決着により、翌年に米側の見舞金7億円余で「完全解決」とされた。

 同じ海域で影響を受けた日本の漁船は約1千隻とされるが、公式の健康影響調査はされていない。80年代以降、船の約3割は高知県から出ていたことが地元の地道な調査で浮かんだ。

 高知の船員らは5年前に国に賠償を求めて提訴したが、棄却された。ただし判決は、立法府と行政府に対し「一層の検討に期待するほかない」と救済を促した。それでも国会や政府は対応を放置したままだ。

 国際情勢に目を転じれば、今年1月に核兵器禁止条約が発効した。この枠組みは、核実験の被害者への国際的な支援を定めた点でも注目されている。

 普遍的な人道主義にもとづく救済の考え方は、日本だけでなく、太平洋諸国など各地の核被害に苦しむ人びとにとって貴重な手立てとなろう。

 ビキニ事件で「3度目の被ばく」を経験した日本は、核禁条約への参画を果たすべきだ。

 米国による「核の傘」を理由に傍観を決め込む姿勢は許されない。核廃絶を願う国際世論と共に立つ日本の決意を示すためにも、条約への関与が必要だ。

 「ビキニ事件は遠い過去に終わったことではなく、未来の命にかかわる」。大石さんの警句が、重く響く。