(社説)五輪きょう開会式 分断と不信、漂流する祭典

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 東京五輪の開会式の日を迎えた。鍛え抜かれたアスリートたちがどんな力と技を披露してくれるか。本来ならば期待に胸躍るときだが、コロナ禍に加え、直前になって式典担当者の辞任や解任が伝えられ、まちには高揚感も祝祭気分もない。

 とにかく大会が無事に終わってほしい。多くの人に共通する率直で最大の願いではないか。

 社説はパンデミック下で五輪を強行する意義を繰り返し問うてきた。だが主催する側から返ってくるのは中身のない美辞麗句ばかりで、人々の間に理解と共感はついに広がらなかった。

 分断と不信のなかで幕を開ける、異例で異様な五輪である。

 ■理念と説明欠くまま

 五輪のような巨大イベントには意見の対立はつきものだ。逃げずに議論を重ね、社会のおおよその合意を得て、次のステップに進む。その営み抜きに成功はあり得ない。ところが東京五輪の歩みは全く違った。

 16年大会の招致に失敗すると東日本大震災からの復興を目的に持ち出し、当時の安倍首相原発事故の影響を「アンダーコントロール(管理下にある)」と国際社会にアピールした。現実を欺くこの演説などで招致を果たした後も、コンパクト五輪構想の破綻(はたん)、経費の膨張、招致をめぐる買収疑惑、責任者の相次ぐ交代など、運営の根幹を揺るがす事態が続いた。

 理念と説明を欠き、不都合なことには目をふさいで暴走する体質は、コロナ禍が起きても変わらず、一層顕著になった。

 大会の1年延期が決まった昨春、安倍氏は今度は「最高のコンディション」「完全な形での実施」を約束した。夢物語なのは明らかだったが、路線を踏襲した菅政権は軌道修正できぬまま、科学的知見や国民の不安を無視して突き進んだ。

 この状況下で考えられる選択肢とそれぞれの長短を示し、情報を公開して、あるべき大会像を探る。そんな姿勢は最後まで見られなかった。五輪といえばどんな無理も通るというおごりと、根拠なき楽観論の行き着いた果てが、「緊急事態宣言下での無観客開催」といえる。

 ■感染防止を最優先で

 この1年4カ月は、肥大化・商業化が進んで原点を見失った五輪の新しい形を探る好機だった。実際、大会組織委員会にもその機運があったという。

 ところがいざ実行に移そうとなると、関係者の思惑が絡み合い、何より国際オリンピック委員会(IOC)と、その背後にいる米国のテレビ局や巨大スポンサーの意向が壁となって、将来につながる挑戦にはほとんど手をつけられなかった。

 あわせて浮き彫りになったのがIOCの独善的な体質だ。判断ミスを重ねた末に、何とか無観客開催にたどり着いたというのに、バッハ会長は菅首相に再検討を求めた。また、「日本の選手が活躍する姿をみれば、日本国民の感情も少し和らぐと自信を持っている」とも述べ、ひんしゅくを買った。

 IOCが市民の声に真摯(しんし)に耳を傾け、思いを共有するように努めなければ、五輪は遠くない将来、引き受け手のないまま漂流することになろう。

 主催者が引き続き全力を傾けるべきは、言うまでもなく感染防止策の徹底である。入国した選手や関係者がウイルスを拡散させないのはもちろん、「日本発」のウイルスを持ち帰らせないようにしなければならない。

 東京は感染が急拡大し、医療逼迫(ひっぱく)の懸念が高まる。国籍や属性を問わず、生命と健康を守ることを最優先課題と位置づけ、中断・中止の可能性も排除せずに大会に臨む必要がある。

 ■選手にエール等しく

 コロナ禍以外にも、世界には紛争、テロ、貧困などの問題が渦巻く。今回も難民選手団が結成された。困難を乗り越えて参加にこぎつけた全てのアスリートには、開催の是非を離れて、それぞれの競技で持てる力を存分に発揮してほしい。

 日本の選手にばかり目がゆきがちだが、外国人選手の多くは感染防止のための様々な制約を受け、事前の調整も思うようにいかない厳しい環境下で戦うことになる。等しくエールを送ることで、ナショナリズムの発露の場になりがちな五輪に、新鮮な息吹を吹き込みたい。

 開会式に先立って始まった競技では、選手たちがそろって片ひざをつくポーズをとり、人種差別に抗議するシーンが見られた。今大会では女性の参加がさらに広がり、男女が一緒になって争う種目も増える。

 競技を観戦することは、戦争と平和、差別の根絶、両性の平等、そして幾つもの不祥事によって痛感させられた、この国の人権意識の遅れについて、思いを巡らせる機会ともなろう。

 躍動する選手の姿を通じてスポーツのもつ力と人間の可能性を認識し、より良い世界をともに築く決意を新たにする。主催者側が具体性をもって示すことのできなかった大会の意義を、私たち一人ひとりが独自の視点で見いだすようにしたい。