(文芸時評)ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む 鴻巣友季子

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 サン=テグジュペリは第2次大戦中、米国に亡命し『星の王子さま』を書いた。同作には祖国を出ていった者の惑いが投影されている。

 王子の内なる闇が、子供の私には理解できなかった。ところが最近再読すると、この少年がヤングケアラーに見えてきたのだ。彼が独り切り盛りする星には、手入れを怠ると星を滅ぼす木や火山があり、注文の多い花は寝たきり者のようだ。

 10代後半から介護を経験した今の私には、若者が持ち場を放棄して遠くへ行きたくなるのも、その後に抱えた心の重りもわかる。

 思えば、宇佐見りん『かか』(河出書房新社)も壮絶なヤングケアラー小説だった。語り手「うーちゃん」は、離婚を経て「はっきょう」した母の代わりに中高生の頃から家事を支え、浪人中。母は家族に暴力を振るい、自傷を繰り返して死にたいと言う。彼女に子宮の手術が決まると、語り手はある思いと向き合うため、家事や介護を放置して旅立つ。

 本作はケア労働と女性性と自立を巡る物語でもあり、語り手の「女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからんのよ」という台詞(せりふ)が刺さる。

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 ここで参照したいのは、英文学者小川公代の論考『ケアの倫理とエンパワメント』(群像連載、8月末刊、講談社)である。個人の自律と自由を打ちだす近代化と、女性の社会進出、新自由主義のなかで、無償の家庭内ケア労働は貶(おとし)められ、フェミニズムを退行させると批判されもした、と小川は解説する。社会で成功した強者はケア労働から解放され、女性、老人、子供ら弱者が更なる脆弱(ぜいじゃく)者を世話する図式が続いている。「弱弱介護」と言うべきか。うーちゃんの悔しさは、女性というだけでこの図式に押しこめられることなのだ。

 ケアとジェンダーの観点からは、桜庭一樹「少女を埋める」(文学界9月号)にも注目したい。実父の死を記録する自伝的随想のような、不思議な中編である。

 語り手の直木賞作家「冬子」も故郷から逃げてきた、ある種のケア放棄者だ。地元を敬遠するようになった一因は神社宮司との結婚話にある。「神社の嫁になり、嫁の務めを果たしながら空き時間で小説を書け」という勧めに抗し、冬子は小説家のキャリアを選ぶが、家父長制社会で夫の看護を独り背負った母は「怒りの発作」を抱え、弱弱介護のなかで夫を「虐(いじ)め」ることもあったのではないか。わたしはそのように読んだ。

 看取(みと)りのために帰郷した冬子は父に詫(わ)びつつ、やはり「個人」の幸福を優先する。題名の「少女」とは、作中では異能者、異分子の同義語であり、冬子は生涯少女であり続けるだろう。郷の共同体の掟(おきて)は「出て行け。もしくは、従え」だからだ。

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 ケアかキャリアか? こうした二者択一ではない選択肢を擁することが、今後の社会的課題だと感じる。そこで小川の論のキーとなるのが「多孔的な自己」だ。難しいが、思い切って平たくすると「隙間がある」ということか。近代的な「自立した個人」は自他の境が明確であるのに対し、より緩やかな輪郭をもち、他者の内面に入りこめる性質。

 興味深いのは、二組のカップルが登場する古谷田奈月「できればドウを助けたいけど」(新潮9月号)である。一組は自律的な海洋研究者同士で、妻の「ドウ」の方が仕事で不利を被り、深く病んでしまう。もう一組は職にも互いの関係性にも強い拘(こだわ)りがなく、初めはドウたちに助けられている。しかし死にかけたドウと夫を救うのは、この2人の“ユルさ”なのだ。思い遣(や)るということの本性が照らしだされる。

 ポルトガル作家ゴンサロ・М・タヴァレス『エルサレム』(木下眞穂訳、河出書房新社)も『かか』と同様、子宮が物語の鍵であり、死と狂気に迫られた者たちの恐怖と共鳴を描きだして圧巻だ。数人がすごす夜中の数時間。希死念慮のある婦人、戦争のトラウマを抱える帰還兵、精神病棟、窓からの身投げ、身代わりと生き残りのモチーフ。V・ウルフ『ダロウェイ夫人』の解体と再構築とも言えるだろう。更け渡る闇に過去の時間が流れこんでくる。

 人は誰かを思いながらも、去就に迷い、留保し、離れては歩み寄る。今月の作品に共通するのは、ためらいや翻心を、波のように寄せ返す文体や構成でも表現している点だ。一直線に進もうとすればケアラーの心は折れる。他者に寄り添うケアに必要なのは、相手にも自分にも揺れや逸脱を包容する緩やかさではないか。

 (翻訳家・文芸評論家)

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 本文中の「夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」という箇所について、「少女を埋める」著者の桜庭一樹さんから「評者の解釈であることを明示してほしい」と要望があり、筆者の鴻巣友季子さんの意向を受けて「弱弱介護のなかで夫を『虐(いじ)め』ることもあったのではないか。わたしはそのように読んだ」と表現を改めました。