(社説)五輪と政治 大国の争いと決別を

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 五輪・パラリンピックの主役はアスリートである。国家は、脇役にすぎない。政府関係者の参加の是非は、各国がそれぞれの判断で決めれば良い。

 来年2月の北京冬季五輪について、米国は政府代表を送らないことを決めた。新疆ウイグル自治区での人権侵害などに抗議するため、「五輪のファンファーレに加わらない」という。

 香港の問題も含め、中国国内の弾圧は深刻だ。主要国は率先して迫害に反対し、是正を求める必要がある。米政府はスポーツの祭典でも、意思表示をするべきだと考えたのだろう。

 五輪の歩みを顧みれば、時の国際情勢とは無縁ではなかった。世界が二分されていた冷戦期は、片方の陣営が選手団を参加させない悲劇も起きた。

 今回、米国が選手団を派遣する姿勢を守ったのは、五輪の趣旨からみて妥当だ。バイデン政権は、付随的な意味しかない政府代表の参加をやめることで、中国への強腰と人権重視の看板をアピールしたいようだ。

 ただ、この措置が実際に問題解決につながる見通しはない。米国は他国に同調は求めないというが、とくに対米関係を重んじる同盟・友好国に「踏み絵」を迫るのは確かだ。

 中国国民の胸中には人権意識よりも、米国への反発心を強く残しかねない。中国政府は「五輪の政治利用」と非難するが、自らも共産党支配の優位を示す場として五輪を利用したい思惑が透けて見える。

 中国外務省は「断固とした対抗措置をとる」と報復する考えを示したが、自制すべきだ。五輪を米中の覇権争いの場にしてはならない。

 ここは改めて五輪本来の精神に立ち返るときだ。文化や国籍など違いを超え、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって平和な世界の実現に貢献する――近代五輪を提唱したクーベルタンの言葉を思い起こしたい。

 中国テニス選手の「失踪」事件は、選手の尊厳より政治の都合が優先される危うさを映している。北京五輪は、大国間の駆け引きや国威発揚を含め、あまりに政治色が強い五輪の現実を見直す契機とするべきだ。

 先の東京五輪では、難民選手団に熱い声援が送られ、国籍を超えて健闘をたたえ合う選手らの姿も多かった。五輪の基盤は心身を磨く個々の人間であり、国家の威信ではない。

 国際オリンピック委員会(IOC)は「政治的中立」の立場から、今回の米国の決定を「尊重する」という。米中双方の顔を立てたいようだが、五輪の持続可能性を真剣に願うならば、大国の思惑に翻弄(ほんろう)される現状をどう正すかを考えるべきだ。