(社説)北京五輪閉幕 理念を見失った先には

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 北京冬季五輪が閉幕した。

 躍動する選手たちの姿は、勝敗や成績を超えて大会を華やかに彩った。最後は運としかいいようのないところで明暗が分かれるシーンも随所に見られ、映像を通して、最高レベルのスポーツの妙味を多くの人が感じ取ったことだろう。

 だが、では国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が自賛したような「五輪精神が輝く」大会だったかというと、それはまったく違う。

 新型コロナの感染拡大は、関係者すべてを「バブル」の管理下におく方法で、想定どおり抑え込んだように見える。しかしその代償として、選手と市民の交流や体験の共有は徹底して阻まれた。これに厳しい取材規制が重なり、世界から隔絶された空間で「平和の祭典」が粛々と進む17日間となった。

 もうひとつの関心事である中国国内の人権状況が、期間中に話題にのぼることはあまりなかった。大会組織委員会が国内法に基づく処罰をちらつかせ、選手らの言動を縛ろうとしたことが背景にあると見られる。

 だが、帰国して安全な環境に身を置いた選手が改めて今回の五輪開催に疑義を呈すなど、引き続き国際社会からは厳しい目が注がれている。中国はそのことを忘れてはならない。

 人間の尊厳や反差別を掲げ、本来アスリートを守る責務を負うIOCの姿勢も問われる。

 バッハ会長は組織委の牽制(けんせい)に異を唱えることもなく、共産党元高官と同意のない性的関係があったと訴えて一時行方不明になった女子テニス選手と談笑しながら競技を観戦。円滑な運営を最優先して中国に同調する姿は、人権問題に真剣に向き合う姿勢とはかけ離れていた。

 ワリエワ選手の禁止薬物問題を巡っても、国ぐるみでドーピングをしてきたロシアへの対応の甘さが、混乱の下地となっているのは明らかなのに、反省の弁はついに聞かれなかった。

 五輪憲章は「五輪は選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と明記する。しかし実際はこの理念から離れ、国威発揚に利用される側面は否めない。

 近年の団体種目の「乱造」は大会を盛り上げて興行の成功に一役買う一方、選手の心身を疲労させ、安直なナショナリズムを一層助長させてはいないか。五輪の原点に立ち返って再考する必要があるように思う。

 今大会ではほかにも、ウェア検査のあり方や採点の妥当性、失格の判定など、規則の透明性や公平性に疑念が持たれる場面も目立った。選手や競技の進化に審判や判定の技術・仕組みが追いついていないのであれば、その見直しも急務である。