(フォーラム)沖縄、復帰50年に考える

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 沖縄が復帰して、今日で50年。街でのインタビュー、新聞紙面への投稿、LINEでの呼びかけ、ツイッターの分析と、できるだけ多くのチャンネルを使って、沖縄への思いを集めました。それぞれの場で、この島に向き合おうとしている人々の姿が浮かびます。

 ■観光だけでなく、基地のこと知って 東京のアンテナショップ、訪れた人々は

 全国のアンテナショップが集まる東京・銀座の一角で、ひときわ目を引くのが、大きなシーサーが店先に置かれた沖縄物産の「銀座わしたショップ本店」だ。訪れた人々に、胸のうちにある「沖縄」を聞いた。

 地下1階から三線(さんしん)の音色が響く。5月の連休中に店が企画した無料体験会に20人ほどが参加していた。川崎市から来た会社員の井上誠さん(55)は、沖縄のかりゆしウェア姿だった。「初めてだったけどものすごく楽しかった。もっと学びたい」

 仕事で度々沖縄を訪れており、島に吹く風が好きだという。復帰50年について尋ねると、沖縄戦の犠牲や米軍基地に話が及んだ。「何もできないのは悔しいけど、応援の気持ちを込めて沖縄物産を買っています」

 店長の後藤友興さん(49)は、首里城が焼け落ちた2019年10月から3度目の銀座勤務になった。店頭で寄付を募ると1千万円以上が集まった。「『応援してるよ』って言葉がうれしかった」

 かつて沖縄の女性が入れていた入れ墨「ハジチ」の本を手にしていたのは歯科医師の鈴木麻美さん(26)。バッグに沖縄の集落にある「共同売店」の写真がプリントされている。沖縄出身かと思いきや、神奈川出身だという。

 沖縄の文化や歴史にも詳しく、「東京の人に、観光だけじゃなく基地のことも知ってほしい」と言う。家には沖縄に関する本が100冊以上あり、自分で勉強したという。この日も、新たに5冊の本を買った。

 東京・中野に住んで40年という沖縄出身の会社員、宮城浩一さん(61)が、シーサーの前で記念撮影をしていた。3歳の孫においしい沖縄そばを食べさせたい、と訪れた。

 「半年に1度は来るよ。商品を見ているだけで懐かしくなる」。50年前の復帰の日には沖縄にいた。「子供だったから、覚えているのはドルから替わった日本円がおもちゃみたいに見えたことぐらい」と懐かしみ、続けた。「50年は早かったよ。米軍基地も残ったままだし」

 東京に孫が5人いるが、いずれは沖縄で暮らしてくれることを期待している。「やはり、海がきれいで環境がいいから。その時には、基地のない沖縄に戻っていてほしい」(宮野拓也)

 ■「祖国へ」変わらぬ現実

 本紙の声欄には、沖縄に関する投稿も多く寄せられている。那覇市の呉我(ごが)愛子さん(64)は2020年10月、「半世紀にわたって交流を続ける県外のペンフレンドがいる」と投稿した。文通のきっかけは「沖縄の復帰が決定した喜びを子ども向け雑誌に投稿したこと」だという。

 記者が自宅を訪ねると、雑誌のコピーを見せてくれた。「わたしたちの住んでいる沖縄が、1972年には返かんされることになりました。祖国へ帰るのです。待ちに待った祖国へ。どうぞ、みんな喜んでください」

 当時思い描いた「復帰」とは「米軍基地がなくなること」だった。当時から、子どもや女性が米兵に暴行されたという話を耳にしていた。「そんな不安も、復帰をすれば消えると信じていました」

 現実は、何も変わらなかった。広大な基地は居座り、米軍関係の事件や事故が続く。そうした現状を新聞に投書するようになった。本土のペンフレンドにあてた手紙にも時々、書き添えた。反応は一度もない。「『大変ね』とは言っても、それ以上は言わない。本土の人にとっては『よその話』なんでしょうね」「『待ちに待った祖国』って、本当だったのかしら」

     *

 <見て見ぬふり、反省> インドネシアの文化交流団体で働く古井愛さん(26)は学生の時、沖縄を学ぶツアーを企画し、沖縄戦の戦跡や米軍基地を歩いた。埼玉県で暮らしていた頃、基地移設計画をめぐる名護市辺野古の埋め立てに沖縄戦犠牲者の遺骨を含む土砂が使われる可能性があると知り、驚いた。計画の中止を求める意見書の採択を地元の議会に働きかけ、実現した。

 そんな経緯が声欄に掲載されたのが2月。「また一つ、自分の声をあげる方法を知った」と書いた。これまで見て見ぬふりをしてこなかったかと、反省の気持ちを込めた。

 「私たちはまだまだ知らないことが多すぎる。現場を訪ねて、自分の目で見て、耳で聞いて確かめたい」

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 <みんなで向き合う> 宮崎県都城市非常勤講師、塚野安枝さん(48)は琉球大で学び、集落の住民から話を聞くフィールドワークを重ねた(写真は当時)。2月に掲載された投稿で「幹線道路沿いに続く広大な米軍基地には言葉をなくした」と、当時の強烈な印象を書きつづった。

 復帰から50年。自分が大学を出てからも26年がたつのに、基地の風景は変わっていない。「現実から目をそむけてはいけない。基地の問題を沖縄だけに押しつけるのでなく、みんなで向き合わないと」(福井万穂、伊藤隆太郎)

 ■受け入れ、私の町で/有事に備え、移転を

 SNSで読者の投稿を募って記事をつくる企画「#ニュース4U(For you)」では、LINE公式アカウントに登録している友だちに質問。回答を寄せた60人余のなかから、2人に追加の取材をして声を聞いた。

 ◇千葉県の会社員女性(63)

 大学を卒業して会社員となった1981年、新人研修先として配属された那覇市で3カ月暮らした。当時、支店長の車が左ハンドルだった。道路が左側通行へ変わったのは3年前で、まだ街中には「○月○日から左側通行!」と書かれたポスターが貼られたままだった。

 いろいろな場所へ足を運んだが、戦争や基地のことは隠していたいように見えた。沖縄の振興に「暗い歴史」は不都合で、明るい観光地を演出したかったのかもしれない。でも本当は、「それでも知ってほしい」という気持ちだったはずだ。

 その後、結婚して子どもができ、家族で沖縄を再訪した。キラキラしたリゾートだけではなく、戦跡なども回って沖縄の歴史を学んだ。いまは成人した3人の子どもに聞いてみた。「沖縄の基地をどうしたらいい?」。彼らはみんな答えた。「私たちの町で受け入れたい」と。

 ◇神奈川県の会社員男性(46)

 自分にとって沖縄は、大学時代の研究テーマだった。ゼミの課題などで沖縄戦と皇民化教育について研究し、卒論にもまとめた。

 現地を訪ねて調べたのは、26年前のことだ。自分が住む自治体の友好姉妹都市が沖縄にあり、派遣されて本島南部の激戦地をめぐった。

 現地ではいまも、ひめゆりの塔など多くの戦跡で、当時を伝える活動が続いている。もっと多くの人に理解を広めてほしいと思う。沖縄の歴史については、残念ながら、なんとなくぼんやりとしか知らない人が多いのではないか。

 私の自宅近くには横須賀基地がある。沖縄から基地機能の移転があってよいと思う。安全保障上の理由などから在日米軍が必要だと考える人にとっても、賛同を得られるのではないか。沖縄から基地を分散させれば、有事の際のリスクマネジメントにもなるはずだ。

 ■ツイッター、県内外で温度差

 沖縄県内と県外で、ネット上の関心事に心理的な距離があるのではないか。今回、ツイッターでつぶやかれた沖縄についての投稿を追跡し、日々うつろう「SNS世論」から、話題の温度差を感じた。

 投稿の分析には、SNS分析ツール「ブランドウォッチ」を使った。「沖縄」を含むつぶやきは、ツールでさかのぼれる最古の2010年7月から22年4月までに、計1億8827万件あった。

 これを「10年7月~14年6月」「14年7月~18年5月」「18年6月~22年4月」の3期間に分け、一緒につぶやかれた言葉の変化を、発信元が県内か県外かに分けて調べた。

 SNSの黎明(れいめい)期でもあった最初の4年間は、県内からは「台風」「bar(バー)」、県外からも「東京」や「北海道」など、旅行の話題や日常を切り取った投稿が中心だった。

 様子が変わったのが、次の4年間だ。沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設現場で16年10月、抗議活動をしていた沖縄の人に対して、機動隊員が「ぼけ、土人が」と発言したことが発覚した。上位に入ったのは、県内では「高江」や「基地反対」だったが、県外では「報道」などが「左翼のデマ」などといった言葉と共に投稿された。

 この頃から県内の投稿数は急激に増え、翁長雄志・前知事を支える「オール沖縄」が議会の過半数を維持できるかが焦点になった17年7月の那覇市議選で一つの山を迎えた。最多だったのは、知事選があった18年9月だった。米軍普天間飛行場を名護市辺野古に移設する計画に反対し続けた翁長氏が急逝したことを受けた選挙で、「知事選」「デニー」といった言葉が多く投稿された。

 一方、県外からの投稿が急増したのは19年3月だった。県内とは対照的に、沖縄旅行が当たるキャンペーンや卒業旅行の内容が中心で、「抽選」「企画」などの言葉が並んだ。

 しかし、新型コロナウイルスの感染が拡大すると、投稿はコロナ一色に染まっていく。沖縄では米軍基地の集団感染が発生し、人口当たり感染者数が多かったこともあって、県内外とも「コロナ」「感染」といった言葉が上位に並ぶようになった。牛尾梓

 ◇来週22日は「小学生のスポーツ全国大会」を掲載します。

 ◇ご意見・ご提案をお寄せください。asahi_forum@asahi.comメールする

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