(多事奏論)法制定なき国葬 本来の喪主、国民を軽視 駒野剛=訂正・おわびあり

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 国を二分した国葬が終わった。国葬とはいったい何なのか、東京の日比谷公園に立って考えてみた。

 日比谷公園を選んだのは、国葬令に基づく国葬が挙行された場所だからだ。

 1943(昭和18)年6月5日、米軍機に撃墜され死去した連合艦隊司令長官山本五十六の国葬がこの場で営まれた。

 この国葬は天皇が発する勅令として1926(大正15)年10月21日に定められた国葬令に基づき営まれた。

 天皇に対する大喪儀は国葬とした第1条から始まり、皇太子皇太孫らも対象だが、七歳未満は「その限りにあらず」とした。

 さらに第3条で「国家に偉勲ある者」について、天皇の「特旨に依(よ)り国葬を賜ふことあるべし」と定め、第5条で皇族でない者の国葬は、首相が天皇の裁決を経てこれを定めるとされた。

 山本は皇族や維新の元勲でもなく、爵位もない一国民だった。そうした者が国葬にされたのは初めてだが、天皇から特別のおぼしめしを賜って対象になったわけだ。

 戦死が公表された直後、5月22日の朝日新聞朝刊も「噫(ああ) 山本五十六元帥」「壮烈・飛行機上で戦死」「特に国葬を賜ふ」の見出しが記されている。

 天皇が主権者だった大日本帝国憲法下の国葬は、一般の葬儀になぞらえれば喪主は国であり天皇であって、国民は天皇からありがたくも葬儀をして頂く立場だった。

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 しかし、戦後、日本国の主権者は天皇から国民にかわり、天皇主権を前提としていた国葬令は効力を失った。

 戦後の新たな国家秩序の中で、国葬をするには国葬令に代わる、主権者国民の意思に基づく法律が必要だったはずだ。

 しかし、1967(昭和42)年10月、恩師吉田茂の死に直面した当時の首相佐藤栄作は法律なしに国葬を行うことにした。

 むちゃなことは佐藤も承知していた。法律なき国葬の実現には、与党自民党だけでなく、野党の暗黙の合意が必要と考えた。

 当時東南アジア歴訪中の佐藤は、野党に根回しするよう、現地から与党の議会幹部に命じた。その結果、あからさまな反対論は野党側からは提起されなかった。

 周到な佐藤は、国葬令時代の喪主、昭和天皇への配慮も忘れなかったようだ。

 彼が書き残した「佐藤栄作日記」で10月23日の出来事を見ると、午前9時半から閣議で吉田の国葬の儀、叙位叙勲を決定し、その後吉田のミサに出席、火葬に立ち会った後、大車輪のように動き回る。喪服を着替えて夕刻、国体のため埼玉県に滞在中の天皇に会って内奏している。日記には吉田の叙位叙勲を内奏したと記載しているが、当然、国葬についても話しただろう。

 今回の国葬も似たようなプロセスをたどった。7月11日に叙位叙勲を決めた持ち回り閣議があり、同日、岸田文雄首相は皇居で内容は定かでないが天皇に内奏している。そして14日、国葬実施が発表された。

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 私は国葬を行うことを否定しない。だが、対象は政治家だけでなく芸術家や科学者ら顕著な功績を挙げた人も含むべきだ。

 問題は、国葬実施という国家の意思を決定し、多額の国家財政を支出するのにもかかわらず、本来の喪主といえる納税者国民に了解を取る手段を講じなかったことだ。

 国権の最高機関であり国民の代表が参集する国会に、事前の報告なり同意を求めなかったことは到底容認できない。この場合の国会軽視は国民軽視でもある。

 吉田の国葬後、佐藤は「先例もなく参考になる様(よう)な事もないので一寸(ちょっと)心配したが、万事は厳かに行はれた」「以上で国葬の儀終了。一安心」と日記に書き込んだ。

 しかし今回は終わって一安心できない。国会の事前同意を前提にした国葬法の制定という大仕事が残っている。岸田さん、このままでは民主国家とは呼べませんよ。

 (オピニオン編集部記者)

 <訂正して、おわびします>

 ▼5日付オピニオン面「多事奏論 法制定なき国葬」で、1943年6月の山本五十六の国葬が戦前の国葬令に基づく「最後の国葬」とあるのは誤りでした。45年6月にも閑院宮載仁(ことひと)親王の国葬が行われており、山本が最後ではありませんでした。確認が不十分でした。