(後藤正文の朝からロック)人間らしい音楽のゆくえ
決済の方法を自分で選択して、店員の協力を得ずに会計を済ませる機会が増えた。釣り銭の受け渡しまで自動化されているため、人為的なミスが入り込む余地がほとんどない。会計という単純労働から従業員が解放されて、別の業務に集中できると考えると有益なのではないかと思う。
一方で、こうした合理性や潔癖さが自分の仕事に向けられる恐怖を、少しだけ感じるようになった。
音階が周波数に合わせて正しく鳴らされているか、リズムが設計された規律に従っているかどうかを中心に音楽を数値として突き詰めれば、僕の存在は人為的なミスのような存在になってしまう。音楽制作にコンピューターが欠かせない現在においては、こうした被害妄想的な観点も、冗談だと笑い飛ばせない。
若尾裕さんの著書『親のための新しい音楽の教科書』に書かれていた「音楽の免震構造」という言葉を思い出す。多くの民族音楽は演奏者の上手(うま)い下手を人間的な面白さとして包み込む寛容さがあり、演奏者に潔癖さを求める近世以降の西洋音楽に比べて、構造的に壊れにくいという。
多くの仕事が人工知能に置き換わっていく未来の暮らしは便利になるに違いない。しかし、私たちの考え方次第では、失敗する可能性のある演奏家があらかじめ排除された、自動演奏の音楽会のような社会が実現する可能性もある。
(ミュージシャン)
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