(社説)中国とコロナ 市民の苦境と向き合え
言論や集会が厳しく統制される中国で、大勢の市民が「自由を」と叫んで街頭に繰り出している。「ゼロコロナ政策」に平穏な日常を奪われた怒りに、習近平(シーチンピン)政権の退陣を求める声まで出る異例の事態だ。中国政府がなすべきは、市民との丁寧な意思疎通であり、命と暮らしを守る柔軟な政策対応だ。
新型コロナウイルスの感染が中国で再拡大している。2020年初め、湖北省武漢で感染が深刻化したが、徹底した都市封鎖で抑え込みに成功した。ところが感染力の強い変異株が次々に現れ、封じ込め一辺倒では追いつかなくなっている。
工場が操業を止め、物流も滞り、経済に深刻な影響が及んでいる。職場が閉鎖されて離職を余儀なくされ、生活苦にあえぐ労働者も増えている。終わりの見えないゼロコロナに、市民の我慢が限界に達していたのは十分に理解できる。
今回、抗議が広がった発端の一つが、新疆ウイグル自治区ウルムチで10人が死亡した火災だ。地区封鎖など過剰な対策が消火を妨げ、救助が遅れたと受け止められた。
隔離や退去を強いられる不条理を体験してきた北京や上海など各地の市民に、憤りと共感が広がったのは当然だ。命を守ることより、ゼロコロナの遂行自体を優先させているのではないか、との疑念も禁じ得ない。
習政権がゼロコロナに固執するのは、医療体制が貧弱な農村部などに感染が広がることを警戒しているため、という面はあるようだ。これまで各国と比べてコロナの感染者や死者の数が抑えられてきたのは事実だ。
一方で、大勢のコロナ犠牲者を生んだ欧米に対し、中国共産党統治の優位性を内外に示す格好の材料としてきた経緯もある。ゼロコロナは習氏自身が指揮したものと強調され、権威付けに利用された。行政の末端までが忖度(そんたく)して硬直的にふるまうのは当然のなりゆきだ。
そもそも中国共産党の一党支配は「党が人々のために正しい政策を進めている」という前提に立つが、人々が声を上げれば厳しい取り締まりの対象にする。自ら誤りを修正しにくい危うさを持つ体制である。
コロナはまだまだわからないことが多いウイルスだ。世界中の国々が感染対策と経済活動の両立に難しいかじ取りを強いられてきた。状況に応じて感染拡大の抑止を進めるうえで、市民との対話、協力は欠かせない。
中国が真にコロナの封じ込めをめざすならば、感染対策の政治利用を戒め、政策を修正できる柔軟さを備えるべきだ。まずは抗議に立ち上がった市民の苦境を直視してもらいたい。
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