第49回大佛次郎賞 『世界は五反田から始まった』 星野博美氏
優れた散文作品に贈る第49回大佛(おさらぎ)次郎賞(朝日新聞社主催)は、ノンフィクション作家・星野博美さんの『世界は五反田から始まった』(ゲンロン)に決まった。一般推薦を含む候補作の公募、予備選考を経て、最終選考で委員5人が協議した。贈呈式は来年1月27日、東京都内で朝日賞、大佛次郎論壇賞、朝日スポーツ賞とともに開かれる。
■祖父の町工場と、地続きだった戦争 手記・証言にみる庶民の知恵
削り出されたばかりの真鍮(しんちゅう)製のネジを一つひとつ、古新聞に包んで木箱に詰めていく。幼いころ、家でそうした「お手伝い」をしたことをよく覚えているという。東京・五反田界隈(かいわい)で、祖父が昭和の初めに創業した町工場の娘として生まれ育った。
受賞作は、そんな星野さんが祖父の残した手記に導かれて、なじみ深い五反田や戸越銀座の街を歩き、家族の来し方をたどった一冊。「大佛次郎賞と聞いて、まさかと驚きました」と話すが、もちろんただの家族史ではない。
千葉の漁師の息子だった祖父が13歳で東京に出て、町工場で働き始めた背景には、第1次世界大戦下の好景気があった。田畑の広がっていた五反田周辺には、大小の工場が立ち並ぶように。やがて独立して構えた町工場は、日中戦争に始まる軍需の拡大に乗って活況を迎えたのもつかの間、空襲により一夜にして灰となった。
五反田近辺という小さな場所に生きた、ある一つの家族の歩みから、日本の近代史、さらには世界史へと地続きに広がる歴史像が確かな手触りをもって立ち上がる。一読、そんな驚きにうたれる。
かつて生きた人びとの日常を子細に見つめることで歴史を描き出す「ミクロストリア」(小さな歴史)と呼ばれる手法を思わせるが、「取材をするうち、想定とは別の方向に進むことを恐れない。決めていたのはそれだけです」。
出版社ゲンロンに連載の執筆を依頼され、当初は山の手の高級住宅地と下町の歓楽街をあわせ持つ五反田を「おもしろく書く」つもりだった。香港から訪れた旧友と街を歩いた時、「どうしてアメリカはここを爆撃したの? 家があるだけなのに」と問われ、被害だけでは語れない町工場と戦争の関わりに目を向けることになった。
「うちも、戦争に加担していた」。そんな思いに至ったのは、1980年代に香港に留学して以来、訪れ続けた中国や台湾で、日本の始めた戦争によって家族が引き裂かれた人びとの存在を目の当たりにしてきたからでもある。
「加害の記憶を相殺するかのように、日本で語られるのは『みんながひどい目に遭った』という話が多い。生き残った人がどんな判断をしたのか、ほとんど伝えられていないことも不思議でした」
そんな思いで祖父の手記を再びめくると、いち早く家族の疎開先を探すなど、国の判断に先んじて行動した姿が浮かび上がった。五反田周辺が焼け野原となった城南空襲(45年5月)の証言にふれると、先にあった東京大空襲の生存者から伝え聞いて、国が義務づけた消火より避難を優先して助かった人びとが数多くいた。次第に、「戦争が起きた場合のハンドブックのような感覚」で読んでいる自分に気がついたという。
戦争はもうこれ以上、決して起きてはならない。それでも「庶民の知恵のバトンタッチ」のつもりで、もしもの事態を想像してみる。「歴史は繰り返すと言われるけれど、同じ顔ではやって来ないから」
(上原佳久)
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ほしの・ひろみ 1966年、東京都生まれ。国際基督教大学卒。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔(こけ)は生えない』で大宅壮一ノンフィクション賞、『コンニャク屋漂流記』で読売文学賞随筆・紀行賞。著書はほかに『島へ免許を取りに行く』『みんな彗星(すいせい)を見ていた』、写真集に『ホンコンフラワー』など。
【選考委員5氏の選評】
■斑の被害と加害、生き抜いて ノンフィクション作家・後藤正治氏
往時、五反田界隈は町工場が立て込む下町だった。「製造業の子」である著者の、自身のルーツと界隈の今昔をたどる私的ノンフィクションであるが、ネズミ色の作業服の色調と機械油の匂いが伝わってくる。
千葉の漁村から出てきた祖父は丁稚(でっち)奉公を経て町工場を興し、父が継ぐ。祖父の遺(のこ)した短い回想録が本書の縦糸を成している。
著者の視線は複眼的だ。戦時下、満蒙開拓団として渡航した隣人たちは辛酸をなめ、城南空襲では丸焼けの被害を被った。空襲で死者が少なかった一因は、お上の指導を無視してさっさと逃げたからとある。
星野製作所は、下請け末端の軍需部品工場で、被害と加害は斑(まだら)模様にからまっている。祖父は、焼け跡には即、私有地を守るための「杭を打て」と言い残した。祖父は「語り部系」、父は「忘却原動力系」とあるが、何が起ころうと、下町の住民たちは、生き残りさえすれば翌日からしたたかに生き抜いていく。
ときところを超え、人とはきっとそのような存在なのだろう。そんな普遍の様がよぎる著でもあった。
半径数キロ圏内の私的な体験が、徐々に広がりと厚みを増し、気がつけば思いがけない場所にたどり着いている。星野博美にしかできない芸当である。そんな中でも、とりわけ本書は星野マジックがピタリとキマった作品ではないかと思う。
舞台は著者が生まれ育った戸越銀座を含む五反田駅周辺。これといったイメージに乏しい町である。だがその界隈を歩き、かつて戸越銀座で町工場を営んでいた亡き祖父の手記をひもとくうちに、知られざる歴史が次々明らかになっていく。
工場が立ち並ぶこの付近は労働者の町で、小林多喜二「党生活者」の舞台も五反田だったこと。満州開拓団として、武蔵小山商店街から大陸に渡った人々が相当数いたこと。戦争末期の空襲で一帯が焼け野原になった背景には、町工場の軍需産業化が関係しているらしいこと。
とかく中世・近世の支配者や地元輩出の偉人にばかり目が向く「郷土史」の常識に一石を投じる快作といえる。労働者・生活者の側から見た地域史の可能性を拓(ひら)くという意味でも、本作の受賞を喜びたい。
■今ここにも、潜んでいる事件 法政大学前総長・田中優子氏
それぞれの立っている「今ここ」が、どういう歴史的時間と空間的意味を持っているか、読者が自らの足もとを思わず見つめてしまう作品だ。それは、世界的事象が大量の情報として入ってくる現代人にとって、極めて重要なことなのだ。歴史も地域も知識でしかない。それで良いか? 本来、歴史観も世界観も、個人の生きる場所から始まる。自分の居場所と向き合えば、歴史を刻んでこなかった場所などなく、戦争に関わらなかった地域などないのだ。
始めはごく狭い。しかし第2章で香港人と一緒に歩くころから五反田の景色が変わる。空襲、小林多喜二の虐殺、無産者診療所・託児所、満蒙開拓団。世界と関わる事件がそこには潜んでいた。いや、日本のどこにも、実は潜んでいる。
島原・天草一揆の原城の出来事を語る地域の人はいない。なぜなら多くの人が亡くなり、人々が他から移住してきたからだという。離散もあり集合もある。しかし語るべき歴史の無い場所など、この世にはない。そのことを知らしめてくれる作品だ。
■「杭を打て」、残す家族の歴史 作家・辻原登氏
私にも「五反田」という街と音の響きにノスタルジーを掻(か)き立てられる思いがあるのだが、それは著者の大五反田主義にとても匹敵出来るようなしろものではない。
〈中原街道から小道を入ってじきのところに、そのねずみ色の町工場はあった。工場の入り口には「合資会社 星野製作所」という木製の看板がかかっている。業種はバルブコック製造業。〉
著者はこの一文だけで読者を“五反田”という生命樹の世界に誘い込むことに成功する。本書の隠された、真のタイトルは『合資会社 星野製作所』だと思う。このタイトルの中に、全てが含まれているではないか。
外房の御宿・岩和田の鰯(いわし)網漁師の六男だった祖父・星野量太郎は高等小学校を中退し……、昭和11(1936)年、戸越銀座に落ち着いて町工場を持つ。その量太郎が残したA4用紙24枚の手記が「世界」の始まりである。家族誌、地域誌が歴史の闇に消え去って行こうとする刹那(せつな)、「戻りて、ただちに杭を打て」という祖父が残した言葉が結実した。
■加担の事実、目を背けず発掘 元本社主筆・船橋洋一氏
戦後、私たちは平和を語り続けてきたが、その調子はいつも、どこか上擦っている。それは、私たち国民が戦争に加担していたという厳然たる事実に目を背けてきたからではないのか。筆者は、昭和2(1927)年から五反田で金具を製造する町工場を経営してきた祖父が死を前に書き残した手記を基に、祖父もこの町も「戦争に加担していた」ことを知る。軍需産業の末端の下請(したうけ)群がひしめいていたのだ。筆者は、この町が、満蒙開拓団、集団自決、残留孤児と連なるのを地層をめくるように掘り起こす。「いつかここが、焼け野原になったら、何が何でも戻って来て杭を打て!」と祖父は孫娘に含めた。国破れて倫理滅ぶ。敵は日本社会の同調圧力である。それに屈しない「なかなかに聡(さと)い小市民」として彼は生き抜き、家族も生き延びた。
〈日本では、戦争で「みんな」がどれだけ苦労したかを語ることは好むが、どのような手段を使って個人が生き残ったか、あるいは逃げ延びたかをあまり伝えたがらない〉
「平和を語る」時の死角を、筆者は見事に言い当てている。
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