(耕論)性別欄のこれから 神谷悠一さん、菊地夏野さん、山崎ナオコーラさん=訂正・おわびあり
長く「男・女」の二択だった「性別欄」が変わりつつある。性の多様性を尊重する考えからだが、ジェンダー差別の実態把握に性別情報は必要という意見も。望ましい「未来形」とは?
■性的少数者を守る工夫を 神谷悠一さん(LGBT法連合会事務局長)
公的機関や学校、会社に出す申請書や証明書、調査、アンケートなどの多くに「性別欄」があります。男性か女性かという従来の二項目に加え、「その他」「回答しない」などの選択肢を加える自治体が目立ってきました。
性的少数者(LGBTQ+)を差別やハラスメントから守るための、改善の工夫が進んでいるからです。
無作為抽出で正確性が高いと見られる埼玉県調査(有効回答5606人、2021年)によれば、性的少数者は全体の3・3%。その中で、「差別的言動を見聞きした」のは84・8%。性的少数者以外では64・3%でした。
性別欄への記入で、精神的な苦痛や具体的な生活への支障を強いられるトランスジェンダーが多くいます。戸籍上の性別への違和感から、それとは異なる性自認を持つ人たちが男か女か選択を迫られ、状況次第では意に沿わぬ戸籍上の性を書かされることもあります。性別欄が自分自身の在りようを否定したり、尊厳を傷つける装置になったりする現状があるのです。
記入後に起きる事例が、私たちには報告されています。
「卒業見込み証明書などに性別欄があるため、見た目の性別と違うとして採用面接で不快な質問をされた」
「就職活動の際、履歴書に生活している性別を記載したら『詐称だ』と言われた」
「公的書類に記載された性別欄と外見の性別が異なるため、本人確認ができないという理由で行政や民間のサービスが受けられなかった」
記入した情報が結果として暴露(アウティング)を招くとの恐れもついて回ります。
私は22年5月に内閣府に設置された「ジェンダー統計」の観点から性別欄を考えるワーキンググループ(WG)に参加しました。このWGの議論は、現在ある男女間のジェンダー差別の解消に取り組むためには正確な実態が必要という観点から、むやみに性別欄を削除するような動きを問題視しています。
一方で報告書には、性別欄がトランスジェンダーに日々の差別などをもたらすこと、その対応の必要性も明記されました。差別を解消するための統計調査を、性的少数者にも包摂的なものとすることで、その重要性をより高める方向にかじを切るべきです。
過渡的には、行政文書において、まず性別欄が本当に必要な書類なのかを洗い出し、統計上必要な場合にも「戸籍上の性別」か「自認する性別」など把握対象を明確化し、諸外国の調査に見られるように、両方を尋ねるなど、さまざまな調整に取り組むべきでしょう。
さらに日本も、他のG7と同様、「性自認」や「性的指向」への差別を禁止する法を早急に作る必要があります。
(聞き手・中島鉄郎)
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かみやゆういち 1985年生まれ。著書に「LGBTとハラスメント」「差別は思いやりでは解決しない」など。
■差別の構造、議論が不十分 菊地夏野さん(社会学者)
これまで慣習として聞いていた性別について「必要がないものは見直そう」という議論の方向性は、妥当だと思います。しかし私が懸念するのは、そうした表層的な問題を解決しただけで、根本にある差別が温存され、不可視化されていくことです。
階級、地域、宗教などが大きな意味を持った身分制の社会から、「全ての人は平等」という社会に転換したのが近代でした。しかし、その「人」は男性だけだった。「男が上、女が下」という性別二元論を元に社会がつくられ、その矛盾を社会全体で解決しようとしてきた歴史が今日まで続いています。
近年はセクシュアルマイノリティーの存在が可視化され、そもそも二元論に当てはまらない人がいるということが提起されました。そのこと自体はいいことです。しかし、その結果として二元論がゆらぎ、差別が解消される方向に進んでいるかというと、そうではない。性別が非常に大きな意味を持つ社会構造には、変わりがないからです。
性別欄を廃止してほしいと訴えている人たちも、性別欄「だけ」のことを言っているわけではないと思います。その背景にある雇用や、カミングアウトできない社会の中にある差別を問題視しているはずです。しかし、そうした問題が十分に議論されているようには感じられません。
私が懸念するのは、性別欄の見直しによって「問題は解決した」という意識が生まれることです。「もう性別なんて関係ないよね」という言葉で、差別が見えなくなる危険性を感じています。
実際、女性差別はそうやって「解決してきた」ことにされています。例えば、男女雇用機会均等法によって求人での直接的な差別は禁止されましたが、総合職と一般職というコース別採用が生まれました。その問題を放置したまま、男女共同参画社会基本法で「男性も女性もがんばろう」ということが法律で規定されました。さらに、女性活躍推進法によって「女性はもっとがんばれ」と言われる。
これらの法律は男女平等への道のりの象徴のように捉えられていますが、性別役割分業も男女の著しい賃金格差も現に存在します。それらの差別は見えにくくなり、エリート女性の活躍がさも男女平等かのように扱われています。
国の性別欄の議論では「ジェンダー統計のために必要な性別欄は残す」という方向が示されました。ジェンダー統計とは平等のために存在するものです。しかし、差別の構造を理解していない政府に、「必要な性別欄」が何かを正しく判断できるでしょうか。不平等を温存したままでは、性別欄の見直しもほころびを繕うようなもので、逆効果になる危険性すらあると思います。(聞き手・田中聡子)
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きくちなつの 1973年生まれ。名古屋市立大准教授。専門はジェンダー論など。著書に「日本のポストフェミニズム」など。
■必要なければ、尋ねないで 山崎ナオコーラさん(作家)
小学1年生ごろから、性別を問われることが苦痛でした。自分では女の子とも男の子とも思っていないのに、聞かれたら言葉で返さなければならない。申込書などの書類で性別欄に丸をつけるのもつらかったです。人間は一人一人違うのに、性別でまとめられる感じが苦痛でした。
この数年は、書類に性別欄があっても、問題なさそうな時は記入していません。子どもの学校や自治体の書類で「父親」か「母親」かを記入する欄があっても、「親」と書いて出し、とがめられたことはありません。
たとえば病院の問診票であれば、性別を書く意味が分かるので書いています。でも、性別を聞いても何の情報になるかわからない場面で性別を聞いている書類が、とても多い。個人個人の考え方はもう進んでいるのに、なんとなく性別欄という形式が残ってしまっているのではないかと感じます。
「その他」という選択肢があることもありますが、私にとってはしっくり来ません。たとえ16の選択肢、100の選択肢があっても、はまれないと思います。男女二元論だけでなく、区分けされるだけで、何か違う感じがしてしまう。人類の数だけ性別があるという気持ちがあります。だから「選ばない」という選択肢がありがたいですね。
属性を表に出したくない人は出さなくていい権利があり、必要ないのに属性を尋ねることは人権侵害になる。そういう考え方が浸透してくれたら、少なくとも私は生きやすくなると思います。「性的少数者への配慮」として尋ねない、ということではありません。全員の性別と人権を守ってほしい。誰であれ性別を言うか言わないかは当人の問題、というのが社会の基本姿勢であるべきだと思います。
性的少数者をくくる言葉も、「女性」という言葉も、本人が使いたい時には使い、使いたくない時は使わないことができる社会が理想だと思います。普段の生活の8割方は「女性」という言葉にはまって生きるけれど、2割のシーンでははまれない、といった人は多いのではないでしょうか。たとえば、仕事の時は、恋愛の時は、「女性」と見られたくない、とか。性別欄は、どんな場面でも各自一つの性別しかないという前提で答えを求めてきます。
私も以前は小説で人物を描写する時、○○人とか○歳とか、国籍や年齢や性別を書いていました。性別や年齢を書いたとたん、すごく画一化された人物像がぽっと出てきてしまう。性別と年齢は人間を表しすぎてしまうのだと思います。今はできるだけそうした属性を書かずにその人を描写する挑戦をしています。性別も年齢も顔の描写も書かなくても、結構、人間は書けるんです。(聞き手・高重治香)
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やまざきナオコーラ 1978年生まれ。性別は非公表。「母ではなくて、親になる」など著書多数。近く「ミライの源氏物語」刊行予定。
<訂正して、おわびします>
▼2月2日付オピニオン面「耕論 性別欄のこれから」の神谷悠一さんの記事で、引用した埼玉県調査のデータに「64・3&」とあるのは、「64・3%」の誤りでした。入力を誤りました。
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