(後藤正文の朝からロック)豊かさ求めた後の責任は

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 「政府の責任で取り組む」。原発から出る高レベル放射性廃棄物最終処分場の選定についてのニュースの中の言葉を読み、その責任について考える。

 数万年の管理が必要だと言われる放射性廃棄物の行き先も決めずに進めてきたのだから、原子力政策の是正には政府の責任という言葉がふさわしいと思う。しかし、数万年後には現在の政策に関わる人間は誰も生きておらず、責任の取りようがない。多くの政策方針の決定は最も狭い意味での政府である閣議が行うことが常態化しているが、彼らは数年のうちに入れ替わってしまう。もっとも数万年前の人類を思えば、国家という政治的共同体や法体系が数万年後にも残っているかどうかも怪しい。

 緒方正人さんの「チッソは私であった」を読み返す。公害事件についての加害責任と賠償は運動によって制度化されたが、金銭的に償われた後も、制度の外側には個人の苦しみが残る。被害者である緒方さんが壮絶な苦悩のなかから紡ぎ出した、公害を生み出した責任は豊かな暮らしを求めた私たち自身にもあるという言葉の重み。

 人々の生活や郷土を、取り返しがつかないほど傷つけてしまうかもしれないこと。私たちがそれぞれに望む豊かな生活は、そうした加害の可能性を持っている。数万年にわたるその可能性と責任を、どう考えたらいいのだろうか。

 (ミュージシャン)

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連載後藤正文の朝からロック

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