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村井久夫さん(1936年3月5日生まれ)

 【山本恭介・27歳】長崎市片淵1丁目の村井久夫(むらいひさお)さん(77)の部屋に足を踏み入れると、壁一面に星空の写真が貼られている。月食、彗星(すいせい)、人工衛星……。どれもきれいな写真だが、星だけが写った夜空の写真とは、少し違うことに気づいた。どの写真にも星空の下に、平和祈念像が写っている。像が天に向けて挙げる右腕が、空の星を指さしているようにも見える。

 撮影の場所はできる限り、平和公園か爆心地公園を選ぶという。理由を尋ねると、「私は被爆者だから、自然とそうなった」と村井さん。原爆が投下された直後に見た、真っ黒な空と血塗られたように真っ赤な太陽。戦後に見た、きれいな天の川。同じ空なのに、まったく違う表情を見せることに驚いた。

 「あんなに恐ろしい空は二度と見たくないし、もう誰にも見せてはいけない」と語る。過ちを繰り返してはいけない、きれいな星空を平和の証しとして後世に残したい、との思いを込めて、夜空に向けてシャッターを切り続けてきた。

 村井さんは1936年に熊本県で生まれた。熊本市の黒髪国民学校では、軍国教育の色が濃かったことを記憶している。校長先生が毎週、教育勅語を全校生徒の前で読み上げ、校庭では行進の訓練をさせられた。教室には軍人が必ずいて、授業を見張っていた。登下校時には馬に乗った軍人とよくすれ違い、端っこにたたずんで頭を下げた。

 44年、熊本県庁に勤めていた父勤一さんが長崎県庁に移り、村井さんは長崎市の伊良林国民学校(現・伊良林小)に転校した。学校では空襲の避難訓練が毎日あり、空襲の際に顔を押さえて伏せる練習を繰り返した。

 校庭にいる時に空襲警報や警戒警報が鳴ると、自宅やその近くの防空壕(ごう)に逃げることになっていた。村井さんの自宅は現在の片淵2丁目にあり、他の児童に比べて遠く、必死に家まで走った。「近くに住んでいた人がうらやましかった」。何度か避難を続けて慣れてきたころ、防空壕から空を見ると、米軍のB29が見えて怖かったことを覚えている。

 1945年8月9日、父の勤一さんは県庁の仕事が休みだった。村井さんは朝から勤一さんと一緒に、家財道具を空襲から守るため、台車に載せて知人がいた長崎市木場町まで運んだ。勤一さんは県庁で農業関連の仕事をしていて薬草に詳しく、帰りに台車にドクダミをいっぱい積んで帰った。

 長崎市片淵2丁目の自宅(爆心地の南東2・8キロ)の6畳間に新聞を敷き、ドクダミを並べていた時だ。西の窓を見るとピカピカッと光り、すぐに爆音がした。目を人さし指で、耳を親指で押さえ、薬指で鼻の穴を塞ぎ、うつぶせになった。学校で練習した通りに、体が反応したのだ。目を開けて、驚いた。ふすまも障子も無くなり、ガラスも全て割れていた。家の前の塀が倒れ、遠くまで見通せる。ドクダミは跡形もなく消えていた。

 外に出ると、昼前なのに薄暗かった。空は雲が真っ黒で、雲間から見える太陽は、血にまみれたように真っ赤。「あんなに気味の悪い太陽を見たことは、あれ以来ない」

 「早く防空壕(ごう)に行かん…

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