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田川代枝子さん(1933年7月17日生まれ)

 【山本恭介・27歳】戦前からカトリック信者として平和を祈り、今は歌で平和への思いを発信している。田川代枝子(たがわよしこ)さん(80)=長崎市三ツ山町=は、カトリック長崎大司教の高見三明(たかみみつあき)さん(67)の姉で、被爆者歌う会「ひまわり」の創成期からのメンバーでもある。

 小さな頃から歌うことが大好きだった。だが、ひまわりでは、歌いながら被爆当時のことが頭のなかを走馬灯のように駆け巡り、つらくもある。原爆で亡くなった祖母と叔母。被爆後に浦上第一病院(現・聖フランシスコ病院)で見た「生き地獄」。発熱でうなされ、被爆者援護に尽力した永井隆(ながいたかし)博士(1908~51)が処方した薬で一命をとりとめた経験。涙が込み上げ、声が出なくなることもあった。それでも、原爆を二度と繰り返してほしくないとの思いが背中を押した。

 「歌の語り部として、これからも歌い続ける」。核兵器の非人道性をテーマに世界のNGOが集まり、11月に開かれた地球市民集会ナガサキでも歌った。

 西浦上村木場郷(現・長崎市三ツ山町)の敬虔(けいけん)なカトリック信者の家に、長女として生まれた田川さん。物心ついた時から朝昼晩の祈りの習慣が身につき、ミサにも通っていた。父親は教会のオルガニストで、厳しい指導を受けて育った。

 「あんたは赤ちゃんの時から、よう歌いよったね」と母親から言われて育った。言葉を覚えていない時にも、童謡「チューリップ」の「咲いた、咲いた」というフレーズを「たいた、たいた」と歌っていたという。幼稚園の頃、声がきれいと周りから褒められ、「一緒に歌うのはもったいない」と、浦上天主堂のミサでラテン語の聖歌を一人で歌ったこともあった。

 1939年に西浦上尋常高等小学校川平分教場に入学後も、新しい歌を習う時はみんなの手本になった。だが、戦況が悪化すると、歌どころではなくなった。空襲警報が出れば床に伏せ、何もない時でさえ避難訓練ばかり。何かを習った記憶はほとんどない。

 学校では空襲警報が鳴れば避難する毎日。家では食事も満足に食べられなかった。「早く戦争が終わって、平和になって下さい」。田川さんは1日3回、心の底から祈った。父から「危険になったら祈りなさい」と教えられてきたからだ。

 原爆が落ちた日も空襲警報が鳴り、学校のグラウンドにあった防空壕(ごう)に避難した。警報が解除されると、先生から「今のうちに帰りなさい」と言われ、15分ほどで家に着いた。

 父親と3歳になる弟の和行(かずゆき)ちゃんが出かけるところだった。和行ちゃんは父親が使う牛車に乗るのを楽しみにしていた。だが、田川さんが帰宅したため、父親は「姉ちゃんと家にいなさい」と言った。一緒に行きたいと泣く和行ちゃんに、米と麦をまぜたご飯で作ったおにぎりを食べさせると、泣きやんだ。いま振り返ると、引き留めていなければ弟は死んでいたと思う。「虫の知らせだったのかもしれない」。原爆が落ちたのは、その15分後だった。

 田川さんは家で弟の和行ちゃんと留守番をしていた。天井は囲炉裏のすすで真っ黒になっており、光が差し込む場所も少なく、部屋はいつも薄暗かった。

 その部屋が突然、「稲妻の何倍もの光」でピカッと光った。「何の光だろう」と思った瞬間に、ドーンと音がした。天井にこびり付いていたススが落ちて、畳は真っ黒。雨戸は折れて家の中に倒れていた。そばにいた和行ちゃんがいなくなっている。見回すと、部屋の端っこに5メートルほど飛ばされ、声も出ない様子で座り込んでいた。名前を呼ぶと、「ワーッ」と泣き出した。

 家から200メートルほど離れ…

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