[PR]

内野節雄さん(1943年生まれ)

 【山本恭介・27歳】「私は1歳9カ月で被爆したので、当時の記憶がありません」。内野節雄(うちのせつお)さん(70)=長崎市恵美須町=は先月、福岡から長崎を訪れた小学生に、両親に聞いた被爆時の状況を語った。

 被爆直後は食べ物も水もなく、きょうだい3人は防空壕(ごう)で毎日泣き叫んでいたことを写真を交えながら紹介。「不安と絶望に陥った母親は私たち3人を連れて崖の上から飛び降り、心中しようとしました。ですが、下が竹やぶで助かった。死んでいたら、みんなと会えませんでした」。約20人の児童は1時間、静かに耳を傾けた。

 女子児童は「一番心に残ったことは、食べ物もなく、みんな死にたいと思うほど苦しかったということ」と語った。

 語り部の活動は、この日が初めて。記憶がないのに被爆体験を語ることに不安もあった。それでも語るのは、戦後も続いた原爆の苦しみをよく知っているからだ。

 内野さんは1950年、磨屋小学校(現・諏訪小学校)に入学した。被爆をしたのは物心がつく前で、自分が被爆者だとは考えてもいなかった。父親の辰美(たつみ)さんの肩や背中、両腕にあるケロイドを見ても、「やけどが多いなあ」と思うだけだった。

 ある日、アメリカ人が乗った黒い小型四輪駆動車が学校の前に止まった。内野さんは車に乗せられた。着いた場所は、被爆者の調査のために米国が設けた原爆傷害調査委員会(ABCC)。血液検査などを受け、あめ玉とチョコレートをもらった。「自分は被爆者だと分かったが、深く考えなかった」。両親に被爆について聞くこともなかった。

 1953年、城山小学校に転校したことが転機になった。クラスは4年1組。子どもへの放射能の影響を調べるために、被爆児童らを集めた「原爆学級」だった。その年の8月9日、それまで被爆について語らなかった両親が突然、体験を語り始めた。「原爆と縁が近くなったからだと思う」

 被爆8年後の8月9日昼、内野さんと兄、妹が母親の政子(まさこ)さんと6畳間で向かい合った。夜には、仕事を終えた父親の辰美さんとも向き合った。2人は静かに自らの被爆体験を語った。聞いた話はこうだ。

 内野さんは被爆時、自宅近くの御船蔵町(爆心地の南1・8キロ)の防空壕(ごう)に一人で寝かされていた。外出中だった政子さんは、爆風に飛ばされてガラスを突き破り、全身血まみれになった。家に戻ると、3歳の兄と7カ月の妹は、崩れた家の床下に落ち、がれきが上に覆いかぶさっていた。ガラスの破片が頭や顔に刺さり、泣き叫んでいた。

 政子さんは防空壕にいた内野さんを腕に抱き、妹を背負い、兄の手を引いて金比羅山に登った。道すがら、黒こげになって死んでいる人や、「水を飲ませてください」と必死の形相で求める人たちがいた。「ごめんなさい、ごめんなさい、と言いながら、心を鬼にして山を登った」。政子さんは、つらそうな表情で振り返った。

 内野さんの母政子さんが金比羅山から長崎市内を見ると、至る所から火の手が上がり、やがて火の海になった。防空壕(ごう)には食べ物がなく、妹に母乳を飲ませようとしても出ない。材木屋で働く父辰美さんも帰ってこない。政子さんは鹿児島出身で、長崎に身寄りはなかった。絶望した政子さんが3人の子と心中しようとしたと聞き、内野さんはショックを受けた。だが、話には続きがあった。

 政子さんは生き延びた時、「命…

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら