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 【石毛良明】《教室に笑い声は戻ってきました。だけど、大熊の子は、まだ心に傷を抱えている。ふっと寂しくなるような。震災の話は一切できない。

 まだまだ難しい。本当に難しい。》

 東京電力福島第一原発から100キロ離れた福島県会津若松市。原発事故で全住民が避難している大熊町の小学生が、ここで学んでいる。使われていなかった校舎を間借りした大熊町立熊町小学校。斎藤誠さん(42)は3年生の担任だ。

 震災のときは、南相馬市の小高(おだか)小学校にいた。

 《あの日、教室は激しく揺れて、子どもたちは泣きじゃくった。あのときも3年生の担任で。子どもたちを保護者に引き渡し、市内の自宅に向かったのは夕方になってからです。

 でも、辺りは一面の海。どこが家だったかも分からない。家には、義理の祖母と伯母、そして、5歳だった次男の翔太がいました。》

 震災翌日、第一原発が爆発。避難指示が出た。翔太君たちを捜しに行くことができないまま、避難生活が始まった。南相馬市、飯舘村、川崎市、前橋市……。県内外を転々とし、4月3日、会津若松市に来た。警察から電話が入ったのは、その5日後だった。

 《「しょうた」の名前が入ったトレーナーの男の子が見つかった、と。原発事故で1カ月近く中断していた捜索が再開された2日目でした。》

 妻の真紀さん(36)と長男の拓人君(12)を車に乗せて南相馬市のスポーツセンターへ。ロビーの床には、いくつもの棺(ひつぎ)が並べられていた。

 《前を歩く妻が「翔太!」と叫んで、泣き崩れました。ああ、だめだったんだ。

 小さな体が、大人が入る棺に横たわっていました。いつも布団で寝ていたような顔で。何度呼びかけても、目を開けることはありませんでした。

 あの日、助けに行ってあげられなかった。ずっと、捜しに行ってもやれなかった。悔しくて。

 私は親として、失格だったのかも知れません。》

 出棺のとき、翔太君の目の両側に、涙が流れたような跡が見えた。

 《翔太は1カ月間、ずっと1人だった。家族に会えたうれしさで、一緒に泣いていたのかもしれません。》

 新学期が始まり、斎藤さんは会津に移った熊町小学校で、教壇に戻った。でも、これまでに教室で翔太君のことを打ち明けたことはない。

 いま受け持っている3年生の隣の教室は、1年生。歌を歌ったり、返事をしたりする声が聞こえてくる。

 《ふっと、翔太のことを思い出してしまう。にこにこした、あの笑顔が浮かんでくるんです。生きていれば1年生でした。あんなふうに、楽しい学校生活を送っていたはずなのに。

 あらがえない、どうしようもない苦しみがあります。以前のような笑顔には、私はもう一生戻れないのだろうと思っていました。》

 そんな斎藤さんの胸に小さな希望の光をともしたのは、新しい命だ。

 《男の子です。翔太の生まれ変わりだと思う。信じられない。おなかの中で動くのが分かる。妻も少し、笑顔を取り戻したかな。》

 予定日は3月10日。 

 《名前は翔太から1字もらって、「優太」にしようと思っています。避難を続けている私たちは、多くの人に助けてもらった。どんな人にも、いつでも優しくあってほしい、と。

 私の心の中の時計は、あの日のまま、止まっています。1秒たりとも進んでいない。でも、この子が無事に生まれてきてくれたならば、再び動き始めるような気がします。

 今度はその1秒1秒を、大切に暮らしていきたい。》

 4日、斎藤さんは教室で「もうすぐ先生に赤ちゃんが生まれるんだよ」と打ち明けた。子どもたちは「えーっ」と驚いて、拍手をしてくれた。

 《教室で、一日も早く、本当の笑顔で子どもたちの前に立ちたい。そのために、努力もしないといけない。そう思っています。》