[PR]

 【野津彩子、野村周】震災から1年8カ月。津波を浴びて動かなくなっていた妻の携帯電話に触れていると、なぜか急に電源が入った。保存された動画を開く。「パパー」。亡くなった長男が呼びかけてきた。

 《あのころなら、死にたいと思うほどつらくなったかもしれません。でも、いまは、うれしい。素直に思います。》

 2011年3月11日。川村祐也さん(28)は、出張先の盛岡で激しい揺れに遭遇した。15分後。岩手県沿岸の町にいた妻(当時20)の携帯がつながった。「いま逃げるところだから」。すぐに車を飛ばした。翌朝にたどり着いた町は、姿を変えていた。

 《自宅があった場所から200メートルほど内陸側に、うちの赤い屋根が見えた。がれきを必死でどけました。

 妻が、11カ月の長男を胸に抱いていた。ふだんは気の強い妻が、本当に眠っているようで。安らかで、きれいだった。でも、腕にだけは力が入っていた。絶対に離さない、という感じで。

 警察にお願いして、火葬まで、ずっとそのままにしてもらいました。出棺のときに一度だけ、2人を離して長男を抱いた。「ごめんね、助けてあげられなくてごめんなさい」。そう言い続けました。》

 震災の7日前、妻は次男を出産。震災前日の3月10日に、自宅に戻ったばかりだった。

 《私はずっと出張だったので、次男の顔は携帯メールの写真でしか見ていません。次男が見つかったのは4月に入ってから。安置所で初めて会いました。

 長男も使っていた黄色いクマのおくるみが、そばにありました。警察からは「見ないほうがいい」と言われた。でも、どうしても抱きたかった。

 「一緒になれたね」と声をかけました。》

 3人の葬儀を終えると、川村さんは仕事を辞め、家族と暮らした町も去った。

 《何もやる気がなくなってしまって。故郷の宮古にも戻りたくなかった。盛岡に来ても、3カ月ぐらい何もしませんでした。

 ふっと思い出したときに、死にたいなと思った。車を運転していると、このまま前の車に突っ込めば死ねるかな、って。》

 そんなころ、被災地で遺体復元のボランティアを続ける納棺師の女性がいることを知った。宮古の同級生が教えてくれた。ほぼ同時期、納棺業者の求人チラシがポストに入っていた。

 《自分は何もできなかった。出棺のとき、妻にドレスをかけてあげたけれど、着せることができなかった。化粧もしてやれなかった。復元の技術があれば、次男も写真のような顔に戻してあげられたかも。

 とりあえず、やってみたい。すぐに電話をしました。》

 多くの「死」に直面する日々――。何度も「辞めたい」と思った。2012年5月、復元ボランティアの女性の講演に足を運んだ。

 《「よく生きててくれたね」と、声をかけてもらいました。私のために泣いてくれた。

 「納棺師は、故人をきれいに戻して、家族に帰してあげる。そうすれば家族が泣ける。故人と家族をつないであげるんです」。そう言われて、気持ちがガラッと変わりました。》

 子どもの納棺に立ち会うこともある。自分と重ねてしまうが、「目の前の両親のほうがもっとつらいはず」と思う。そんなとき、自分の体験を打ち明ける。

 《聞いてくれたお父さんやお母さんが、「笑った顔がかわいくてね」と、思い出を話してくれることがあるんです。

 納棺の時間には、家族が故人の顔をさわってあげたり、生前の思いをくみ取ってあげたりする。

 この仕事をしていると、家族が亡くした人を大切にしていることが、ひしひしと伝わってくる。命って大切なんだって、いま教えてもらっています。》

 死と向き合うことで前を向けた、と川村さんは言う。違う仕事だったらダメになっていたかも、と。

 《震災から1年は「助けてあげられなくて、ごめん」と家族に謝ってばかりだった。いまは「自分のところに来てくれてありがとうね」と語りかけています。

 いま納棺師をしているのは、妻や子どもが亡くなったから。私の右手は長男で、左手は次男なんです。私の技術の成長は、子どもの成長だと思っています。》

     ◇

 死者と行方不明者が約1万8千人にのぼった東日本大震災。この2年、大切な人を失った被災地の人々は悲しみに向き合い、生きることの意味を探し続けてきた。その思いに耳を傾ける。