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【2014年2月~3月掲載「患者を生きる」より】

何度も口がもつれる

 電動ベッドを上げてもらう。我が家のカーポートにある柿の木が見える。その右上には、大木の椰子(やし)。木には名前をつけてある。椰子の木は娘の、柿の木には教え子の名前。からだはほとんど動かなくなった。でも、こうして木を眺めれば、顔を合わせているようで、うれしい。そう。ゆかい、ゆかい――。

 篠沢秀夫さん(80)。大橋巨泉さんが司会を務めたテレビ番組「クイズダービー」(TBS系)に、1977年から11年間、レギュラー解答者として出演した。よく間違えた。それでも、「ゆかい、ゆかい」と鷹揚(おうよう)に笑った。本業は学習院大学文学部教授。「ゆかい教授」のニックネームで人気を博した。

 テレビ画面からうかがえる人物像は、普段も変わらなかった。クイズダービーを彩った女優の長山藍子さん、竹下景子さんらに慕われた。降板後も母校の学習院大で教壇に立った。そのかたわら、仏文学の専門を生かしたフランス旅行を主催し、テレビ出演、執筆活動に励んだ。70歳で定年退職。最終講義には約700人が集まった。

 経歴は華やかでも、ずっと愉快だったわけではない。フランス留学中の62年、自動車事故を起こして先妻を失った。さらに帰国して13年後の75年、長男が部活動の合宿中に海でおぼれて亡くなった。15歳だった。

 クイズダービーに出たのはそれから約2年後だった。妻礼子(れいこ)さん(73)との間に、長女茜(あかね)さん(37)が生まれて1年。ようやく気持ちをもち直したころだ。出演を承諾したのは、学者として伝えたいことがあったから。「クイズと学問は違う」「不得手なことはできなくてもいい」

 70歳で名誉教授となった後も、母校で生涯学習の講義を続けたり、各地で講演会を開いたりして、忙しくしていた。講演に行った秋田で、二日酔いがたたって倒れた。人間ドックで「血糖値が高い」と注意されはじめた。

 好物の黒飴(あめ)を隠し持っていたのが見つかり、妻から「甘い物禁止令」が出たのが2007年の秋。そこから半年で8キロダイエットした。ちょっとやり過ぎかな、と思っていた。異変が起きたのはそのころ。74歳の春だった。

 「あれっ? どうも口がもつれるな」

 体重の減らしすぎで、歯茎のバランスが崩れたのだと思った。念のため、検査入院した。でも、はっきりと悪いところは見つからなかった。

 口のもつれは続いた。気をつけてしゃべっても、聞き返されることが増えた。夏以降のテレビへの出演依頼はキャンセルされた。

 11月。風邪気味で、かかりつけの耳鼻咽喉(じびいんこう)科に行った。のどの奥を診た専門医に言われた。「声門の閉まりが変だ」。総合病院で脳の検査を受けた。しかし、問題は見つからなかった。

 一安心した。ところが、同じ月に受けた人間ドックでも「東京大病院(東京都文京区)の神経内科を受診したほうがいい」。手指の反りが悪いという。総合病院で脳に問題はないと言われた後でもあり、さほど気にしなかった。

 翌月、神経内科外来を受診した。6人の医師に囲まれ、筋電図の検査を受けた。筋肉の収縮具合を調べるため、手足や肩に針を刺された。

 妻の礼子さんは、嫌な予感がしていた。同じころ、のちにiPS細胞の研究でノーベル賞を受ける山中伸弥(やまなかしんや)・京都大教授の講演を聴いた。

 気になったのは、山中さんが終盤に話した往年の大リーグ選手の名がついた「ルー・ゲーリッグ病」だった。筋力が落ちてからだが動かなくなる病気で、筋萎縮(きんいしゅく)性側索(そくさく)硬化症(ALS)と呼ばれている。ゲーリッグの死去後、70年近くがたってもなお、克服できていない難病という。

 「どうしても治したい病気」と話す山中さんの言葉が耳に残った。夫の症状について聞きたくなった。――ろれつが回らないのはダイエットのせいですか? 食べても太らず、顔色が悪いのが続いているのはなぜでしょうか?

 年が明けて09年。「このまま20年が過ぎればいいよね」。夫婦でうなずき合った。その2週間後、入院を促す連絡が東大病院から来た。

 神経内科の高橋祐二(たかはしゆうじ)さん(44)=現国立精神・神経医療研究センター神経内科医長=が主治医となり、採血、肺活量、筋力の検査をした。

 1月末、別室に呼ばれた。礼子さんと茜さんも一緒だった。そこで、診断名が告げられた。長い名前で、ALSとしか覚えられない。覚えたくなかったのかも知れない。筋肉を動かす神経が麻痺(まひ)していく病気。進行性で有効な治療法はない、らしい。

 黙って聞いていると、隣にいた礼子さんが質問した。「奇跡はないのですか?」

 主治医の高橋さんは淡々と答えた。

 「残念ながら、診断が正しいのであれば、治る見込みはありません」

〈しのざわ・ひでお〉 1933年6月、東京生まれ。学習院大文学部、東京大大学院修士課程でフランス文学を専攻。パリ大留学を経て、73年に学習院大教授に就任。2012年、闘病記「明るいはみ出し ゆかい教授とはみ出し女房」(静山社)を出版。

(藤島真人)

     ◇

呼吸が弱り、意識遠のく

 クイズ番組の珍解答で人気だった篠沢秀夫さん(80)は2009年1月、入院した東京大病院(東京都文京区)で筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断された。

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