震災5年 被災地からのメッセージ(2)《スマホで視聴の方はここをクリックして下さい》
[PR]

 「地域の人口は半分になり、南相馬市は超高齢化の街になった。医療のかたちも変わらないといけない」(小野田病院の菊地安徳院長、2011年8月30日付「原発事故と地域医療㊤」)

 福島第一原子力発電所の事故後、多くの人たちが県内外へ避難した福島県南相馬市の原町区で、残った住民のために医療を提供しつづけてきた病院の一つに小野田病院があります。震災5年を前にした2016年2月24日、インタビューのために病院を訪ねると、新しい外来診療棟ができていました。しかし、話を聞くと看護師不足のため、使えるはずの入院ベッド数の半数程度しか使えない状況が続いています。中高年を中心に多くの市民が南相馬に戻ってきており、帰宅困難な浪江町からやってきた住民の新築住宅も増えているといわれています。院長の菊地安徳さんに、南相馬の今とこれからについて、全国のみなさんに向けたメッセージをもらいました。動画には看護部長の但野圭子さんからのメッセージもあります。

福島県南相馬市 小野田病院院長・菊地安徳さんからのメッセージ

五年という曖昧

【北泉海岸】

 南相馬、北泉海岸に立つ。立春も過ぎ、日差しはぼんやりと和らぎ顔に吹く風もかすかに春の香りを含んでいるようだ。砂浜から太平洋を望むと沖にはのんびりとフェリーが行き、波間には多くのサーファーが水飛沫を上げて腕を磨いていた。左手には最新の火力発電所の威容が映る。海岸線はきれいに掃除され、良い波が立つとの事でサーファーが集まってきているのだ。かつての海岸線は津波で押し寄せた瓦礫がいっぱいで、左手の発電所は巨大な作業クレーンが無残にひしゃげていた。のどかな風景に、あれから5年も経ったのかぁと溜息が出た。

 後ろを振り返ると土木作業の重機やトラックや、津波で削られた赤茶けた山肌がそのままに、広大な荒地が広がった。かつてここには県内でも有数のキャンプ場が整備されていたのだが今ではその跡形もない。子供たちとのキャンプで楽しかった思い出が頭をよぎり、前後の風景のギャップに唖然とする。

 視線の奥の小高い丘の上に、昨年小さな洋菓子店が店を開いた。今も居住制限されている南相馬市小高区から移転してきた。こじんまりした店舗の周りは春には芽吹く木や草花などかわいい植栽が施され、荒地の中にあってここだけは別世界のようだ。店内にはチョコレートやシロップの甘い香りが漂い、復興を願う市民の気持ちを和ませる希望の場所でもある。

【医療事情】

 震災後崩壊寸前と言われた当地の医療環境は震災後2年当時からほぼ横ばいの状態だ。病院診療所数33施設(70%)、病院病床数579床(43.6%)、医療スタッフ数827人(67.3%)。介護施設病床は住民の高齢化を見据えてわずかに増加した。医療介護の回復を阻む原因は相も変わらずスタッフの減少、特に若手スタッフの絶対不足だ。震災で急激に進んだ地域の高齢化が大きく影を落としている。

 地域の病院は外来も病棟も高齢化率ほぼ100%。放射線被害を恐れた若手世代が地域外に避難し、老人を介護する親世代が居残るという家族離散の図式は未だ回復の兆しがなく、高齢者のみの独居や老々介護を余儀なくされる世帯が目立って増加している。高齢化と医療費高騰の対策として地域包括ケアの旗印のもと行政が進める医療介護モデルは、震災後5年を過ぎても地域の現状がまだ受け入れを許さず、今後の住民の要望にも明らかに逆行している。原発事故で荒らされたこの地域の住民環境は5年の歳月では未だ回復しておらず、真の回復まで今後どれほどの時間を要するのか予想もできない。

 困窮した地域の医療現状に直面して、我々医療者も限られた医療資源の中で市民の健康を守るために日々汗を流している。医師会有志の支援を受けた夜間小児救急診療の継続もそのひとつである。昨年より診療日も増やし若い世代の地域定着を促している。当地に多い脳卒中患者に対応して脳卒中センターの建設も着々と進んでいる。来春には双葉で休校を余儀なくされている准看護学校の招致も決まった。

 居住制限地区の南相馬市小高区では4月から2診療所が再開を決断した。市立小高病院も幸い週5日の外来診療の目途が立ち市民にとっても我々医療者にとっても大きな喜びである。これは小高区の居住制限解除に向けて医療側から市民へのサプライズだ。震災から5年を経て、当地の医療もゆっくりではあるけれど復興に向け着実に前進している。

【南相馬市 原ノ町駅前】

 南相馬市の中心地、原町区。常磐線は隣の相馬市との間を折り返し運転している。仙台市までの運行再開まではあと1~2年と聞いている。

 午前の駅前通りは図書館の周りもいまだに人影はまばらだ。時々すれ違う人も高齢者ばかりが目に付く。高齢化率33.6%の街とはこんなものであろうか。甚だ閑散とした景色である。

 昼食時になるとコンビニの周辺にやっと客が増えてきた。揃いの作業服を着ているのは除染作業員だろうか。現在、市内の除染作業員は五千人とも言われ、局所空間線量率 0.23 uSv/h 達成を掲げて大規模な除染作業が行われている。この作業がいつまで続くのかまだ不明である。

 弁当を買い求める客の中に老人もちらほら。しかし、子供の姿が全く見えないのはどうしたことか。子供達も震災後5年を過ぎてかなりの人数が戻っているはずなのだが、どこか寂しく感じられる。

 時計を朝8時に巻き戻したら、いたいた。駅前からコンビニあたりまで子供たちが大勢いた。自転車で学校へ急ぐ学生服の高校生達。友達と数人でだらだら歩きは別の学校の制服か。朝からコンビニのパンをかじっている。鞄を背負ったジャージ姿の女の子は妙に急ぎ足で、近くの中学生だろう。以前よく見られた集団登校の小学生は震災後見なくなった。屋外被曝や治安を心配して親たちが送迎していると聞いた。

 市内の子供たちは、小中学校が予定入学数の約6割、高校では約7割の生徒が震災後帰省して学んでいる。避難生活の記憶や、あるいは今なお仮設住宅住いなどにも拘らず子供たちの表情は皆一様に明るく見える。友達は減ったけれど、南相馬の子供たちは明るい未来を信じて元気に羽ばたこうとしている。

【五年という曖昧】

 遠くから原発再稼働の声が聞こえる。消えることのない避難の記憶がよみがえり、子供たちの心には将来への不安、原発政策への疑問、社会への不信が芽生えている。南相馬の子供たちの不安は、本当は、言葉には出さないけれど国民全員の不安であろう。蔓延した無責任な個人主義が遠くの暴挙を許し、震災と原発事故は過去の事として南相馬から視線を遠ざけている。

 震災から5年などという誰かの無責任な時間軸などに惑わされず、ゆっくりではあるけれど着実に歩みを進める我々の取り組みを国民皆で見続けてほしい。そしてこの地で暮らす子供たちの明るい未来と希望を、視線を逸らさず支援してほしい。

略歴

宮城県仙台市生まれ

1987年 岩手医科大学卒

独立行政法人国立病院機構 仙台医療センターを経て1997年より小野田病院に勤務

2010年 小野田病院院長

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

<アピタル:東日本大震災・被災地からのメッセージ>(岩崎賢一)

岩崎賢一

岩崎賢一(いわさき・けんいち) 朝日新聞記者

1990年朝日新聞社入社。くらし編集部、政治部、社会部、生活部、医療グループ、科学医療部などで、医療を中心に様々なテーマを生活者の視点から取材。テレビ局ディレクター、アピタル編集、連載「患者を生きる」担当を経て、現在はオピニオン編集部。『プロメテウスの罠~病院、奮戦す』、『地域医療ビジョン/地域医療計画ガイドライン』(分担執筆)