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 国立国際医療研究センター(東京都新宿区)のトラベルクリニックで働く看護師の爾見まさ子さん(40)は、渡航前の医療相談や予防接種に訪れた人に、海外でかかる感染症の怖さを伝えています。2008年に予防薬を飲まないでギニアに滞在し、帰国後にマラリアを発症して一時意識もなくなるほど重い状態になった「苦い経験」があるためです。それまでの内科勤務から渡航医学の分野に転じました。

 

予防薬飲まず、ギニアへ

 東京都新宿区にある国立国際医療研究センターのトラベルクリニック。海外渡航者の診療や予防接種、医療相談などを担う専門の診療所だ。看護師の爾見(しかみ)まさ子(こ)さん(40)は、訪れた人たちにこう話しかける。

 「マラリアになったことがあるんです。すごくつらいですよ」

 2008年2月。故郷の愛知県岡崎市で暮らしていた爾見さんは、アフリカ・ギニアへの出発を2日後に控えていた。ダンスが趣味で、アフリカンダンスを学ぼうと、勤めていた地元の病院をやめて1カ月間滞在する予定だった。

 現地で感染症にならないようにと、県内のトラベルクリニックを受診した。応対した医師に「もっと早く受診してくれればよかったのに」と言われた。予防接種は効果が出るまでに時間がかかる場合もあり、本来は出発の1カ月ほど前までに受診するのが望ましいためだ。爾見さんは、過去に接種歴がある破傷風ワクチンの注射を受けた。

 さらに、アフリカで流行しているマラリアの予防薬を飲むかどうか聞かれた。マラリアはマラリア原虫という寄生虫を持った蚊に刺されて感染する。当時の薬は吐き気などの副作用があるうえ、本来はもっと前から服用しておく必要があると説明された。自分が感染するとは思えず、「いりません」と答えた。

 ギニアでは、首都コナクリで現地のダンサーからダンスや音楽を教わるプログラムに参加した。主催者が借り上げた一軒家で集団生活を送った。レッスンの多くはテラスなどの屋外だったが、虫よけスプレーを使い、蚊に刺されないように注意していた。

 毎日が楽しく、予定を延ばして4カ月間滞在した。帰国前の1週間は、ニジェール川のほとりの音楽が盛んな村で過ごした。一帯は電気もガスも通っていなかった。

 泊まった小屋は、わらぶき屋根で窓に網戸はついておらず、寝床に蚊帳もなかった。暑くて薄着のまま寝てしまい、何カ所も蚊に刺された。現地の人たちは蚊に刺されても平気で、自分もあまり気にとめなかった。

 ギニアを満喫し、帰国の途についた。

 

 

帰国後に発熱、容体急変

 2008年6月、4カ月滞在したギニアから帰国した愛知県岡崎市の爾見(しかみ)まさ子さん(40)は、2日後の日曜日の夜、自宅で急に発熱した。測ると39度。帰国の1週間前に滞在したギニアの村で、蚊に刺されたことを思い出した。

 「マラリアかもしれない」

 父(72)に付き添ってもらい、空港の検疫所で紹介されていたトヨタ記念病院(愛知県豊田市)にタクシーで向かった。夜間救急外来で、当直医の杉本賢文(すぎもとさとふみ)さん(36)=現在は名古屋大学助教=に、ギニアから帰国後間もないことを伝えた。

 杉本さんは、発熱や頭痛などの症状が出るマラリアの可能性を考えたが、診断するには、血液の中に原虫がいるかどうかを調べる必要があった。休日で夜間の病院には、血液検査ができる技師がいなかった。翌朝すぐに検査できるよう、そのまま入院した。

 検査の結果、「熱帯熱マラリア」の原虫が見つかった。マラリアは感染した原虫によって種類が分かれ、熱帯熱マラリアは原虫が体内で激しく増えて重症化しやすく、「悪性マラリア」とも呼ばれる。多臓器不全や脳症などを起こすことがあり、免疫のない旅行者がかかって治療が遅れると、死亡する恐れもある。

 「やはりマラリアだったのか」。爾見さんは、すでに原虫が赤血球の20%に寄生しており、赤血球を壊しつつあった。重い状態に陥っていた。

 朝のうちは食事ができていたが、昼にかけて徐々に容体が悪くなった。トイレで嘔吐(おうと)を繰り返し、意識がもうろうとし始めた。

 「状態がよくないので、部屋を移します」

 容体をこまめに診られるように、一般病棟から高度治療室に運ばれた。

 病院に駆けつけた両親らは、面会ができなくなった。

 「えらいことになった」

 父は、回復しても何らかの後遺症が残るのではないかと不安になった。

 診断が確定し、杉本さんは抗マラリア薬「メフロキン」を飲ませることにした。原虫は地域によって薬に耐性がある場合もあるが、メフロキンはギニアの原虫に効果が期待できた。

 

 

助かった経験、役立てる

 2008年6月に熱帯熱マラリアと診断された愛知県岡崎市の爾見(しかみ)まさ子さん(40)は、トヨタ記念病院の高度治療室で抗マラリア薬「メフロキン」による治療が始まった。重症で意識障害が起きており、院内に保管されてすぐに使えるこの薬が選択された。

 意識がもうろうとする中、薬を2回に分けて飲んだ。その後、呼びかけへの反応がなくなり、意識不明の状態になった。

 翌日の血液検査では、マラリア原虫が寄生している赤血球の割合が、入院時の20%から5%に改善していた。主治医の杉本賢文さん(36)は手応えを感じた。

 2日後、爾見さんは意識を取り戻した。血液中の原虫はどんどん減っていき、1週間後には完全にいなくなった。

 マラリアは治療の遅れが致命的な結果につながる。退院する際、「助かってよかったですね」と杉本さんに声をかけられた。「こんなに悪くなるなんて」。爾見さんは命拾いをしたことに安堵(あんど)しながらも、予防薬を飲まなかったことを悔やんだ。

 そして、新たな決意が芽生えていた。

 ギニア滞在のために退職していたが、その年の10月から空港の検疫所で再び看護師として働き始めた。それまでは内科に勤めてきたが、マラリア感染の経験をきっかけに、「輸入感染症を学び、検疫所で体調を崩した人の相談に応じたい」と考えるようになった。

 海外で感染した患者の診療により深くかかわろうと、16年4月には国立国際医療研究センター(東京都新宿区)のトラベルクリニックに移った。渡航前の予防接種や健康相談に訪れる人と接することができる。予防の話をするときは、つい力が入る。

 出発前に受診していながら、金銭的な負担や手間を理由に予防接種などを受けずに出かけ、現地で病気になって再び来院する人もいる。海外で感染症にかかった人の体験記を集め、ファイルにまとめた。受診者に参考にしてもらおうと、待合室に置いている。

 「私はマラリアになったことで、今、ここにいる。迷っている人の背中をちょっと押すことが、役目かなと思っています」

 

 

情報編:渡航前、正確で最新の医療情報を

 海外に出かけるときは、日本にない病気や、日本よりも感染リスクが高い病気に注意が必要だ。

 連載で紹介したマラリアは、サハラ砂漠以南のアフリカ、中南米やアジアの一部で流行している。世界で年間2億人以上がかかり、40万人以上が死亡している。日本でも、海外で感染して帰国後に発症する人が年に数十人いる。

 流行地でも、都市部のホテルに短期滞在するのなら感染リスクは低いが、郊外や空調のない宿での長期滞在などではリスクが高くなる。出発前から帰国後まで予防薬を飲み、現地では蚊に刺されない対策が必要になる。

 渡航者の感染予防は、黄熱のように一部の国から入国時に予防接種証明書を要求される場合もあるが、基本的には自身の判断で行うことになる。予防接種は効果が出るまでに時間がかかるものもあり、遅くとも出発の1カ月前には受診することが大切だ。

写真・図版

 東京医科大学病院の浜田篤郎・渡航者医療センター部長(61)は「渡航先での感染症の予防に、日本人の意識は薄い」と指摘する。発展途上国へ行く日本人旅行者を対象に厚生労働省研究班が2007~08年に実施した調査では、世界の広い地域で感染リスクのあるA型肝炎の予防接種を受けた人は、回答者302人(短期滞在も含む)のうち6%。同様の調査でみると、欧州は42%、米国では24%が予防接種を受けており、日本人の低さが目立った。

 さらに、日本人では旅行前に現地の健康関連情報を得た人は39%だった。専門家から健康指導を受けた人は2%で、欧州の35%を大きく下回った。欧米では渡航者の健康相談や予防接種を専門に扱うトラベルクリニックが各地にあり、かかりつけ医も渡航医学の知識が豊富なことが多いという。

 トラベルクリニックは日本に90カ所以上あるが、都市部に集中している。厚労省検疫所はウェブサイト「FORTH」(http://www.forth.go.jp/index.html別ウインドウで開きます)で感染症の情報提供をしているほか、各検疫所で電話相談にも応じている。

 浜田さんは「旅行前には正確かつ最新の情報を入手し、渡航先や滞在期間に応じて予防策を考えてほしい」と話す。

 

<アピタル:患者を生きる・感染症>

http://www.asahi.com/apital/special/ikiru/(松本千聖)