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 1992年にエイズウイルス(HIV)の感染がわかった東京都の長谷川博史(はせがわひろし)さん(64)は、実名で自身の体験や病気の正しい知識を伝える活動を20年以上続けています。複数の薬を同時に飲む多剤併用療法でエイズの発症を防いでいますが、長期の服用や糖尿病の影響で腎機能が低下し、人工透析になりました。引っ越しするために、新たな透析治療の通院先を探したところ、約40カ所の医療機関から断られました。

 

診断、「死のう」と思った

 東京都の長谷川博史さん(64)はエイズウイルス(HIV)の感染を公表し、感染した人たちでつくる団体「JaNP+(ジャンププラス)」の理事を務める。

 感染がわかったのは1992年の年明け、39歳の時だった。フリーの雑誌編集者をしていた。10代後半で男性が好きだと自覚。大学進学を機に故郷の九州を離れ、東京で暮らし始めた。恋愛や性交渉の相手が短期間に変わる生活を送っていた。

 HIV感染症を特集した海外のニュース番組を見るたび、「検査を受けなければ」と思っていた。しかし、「もし感染していたら」という怖さもあり、先送りにして何年も過ぎた。

 91年の暮れ、思い切って目黒区内の病院で血液検査を受けた。正月三が日が過ぎると、結果を聞きに行った。

 「梅毒、大丈夫。淋(りん)病、大丈夫……」

 診察室で検査結果を読み上げていた医師が急に口を閉ざした。青ざめた様子で診察室の奥に消えていった。誰かに電話をかけているようだった。

 診察室の机の上には、結果が記された用紙が残されていた。

 HIVの欄に「+」とあった。感染を意味していることはすぐにわかった。頭の中が真っ白になった。ただ、心のどこかで覚悟していたためか、取り乱すことはなかった。

 医師から詳しい説明はなく、HIV感染症の診療をしていた東京大学医科学研究所病院への紹介状を渡された。

 「死のう」。先の見えない不安からそう決意した。病院からの帰り道、自殺の方法をいろいろ考えた。当時は体重が約110キロあった。首をつるには、自分の重さでも枝が折れない木を探さなくてはいけないと思った。

 仕事はまったく手につかず、家の中で何もしないで過ごした。夜になると近所の公園を歩き回った。そして、疲れ果てて眠る日々を送った。

 絶望の中で、やっと、「病院へ行こう」という気になった。「エイズでもうすぐ死ぬんだ」との思いは消えなかったが、紹介状にあった病院に向かった。

 

 

免疫細胞が減少、治療開始

 1992年1月、エイズウイルス(HIV)感染がわかった東京都の長谷川博史さん(64)は、治療拠点になっている東京大学医科学研究所病院を受診した。診察室で男性医師に質問をぶつけた。

 「どれくらい生きられますか」「どんな治療がありますか」「発症したらどうなるんですか」

 広告会社や出版社に勤めた後、…

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