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 「訪問看護」というと、まず思い浮かぶのが高齢者の在宅医療です。でも最近、自宅以外の場所で働きながら訪問看護を受けたいと思う出来事がありました。そこで「訪問看護」の公的サービスについて調べてみると、自宅や居宅系施設の一部にしか訪問してもらえないという情報にたどり着きます。なぜ、居宅に制限されるのでしょうか。大人になって自宅ではなく職場で訪問看護を受けたいと願う自分自身の経験を踏まえると、「医療的ケア児(人工呼吸器などをつけ、常に医療ケアが必要な子ども)」のケースと同じように、「学び働く場への適用拡大」というニーズがあるように、私は思います。

 

 訪問看護とは、病気や障害によって自宅での療養を必要とする人に、看護師などの医療者が自宅へ訪問し、さまざまなケアを行うものです。呼吸器や胃ろう、たんの吸引などの日常的なケアから看取りまで、患者の生活に寄り添いながら医療を提供してくれる仕組みのことです。

 

 けれども、医療・介護保険を含めた訪問看護の根拠法令である健康保険法の第88条では、訪問看護の定義についてこう定めています。「その者の居宅において、療養上の世話又は必要な診療の補助を行う」。この文から読み取れるのは、利用者の居宅へしか訪問することができないという制約です。居宅には、自宅および居宅系施設の一部が含まれますが、いずれも利用者の居住の場に限定されていることに変わりはありません。医療的ケア児の関係者の間では、このことを「居宅しばり」といって問題視しています。

 

 はたして、訪問看護の利用者がもつニーズは、居宅だけで事足りているのでしょうか。

 

 先月末、私自身が居宅以外の場所で、訪問看護を利用したいと思うことがありました。

 

 8月半ばから「排便コントロール」が崩れて、飲食の度に便が漏れる日々が続きました。脊髄損傷と似たような状態にある私は、便意もなければ、漏れる感覚も分かりません。そんな状態で下痢が続くということは、普通の人以上に大変な状況に見舞われるのです。オムツが欠かせない、蒸れて褥瘡(じょくそう)の痕が悪化する、尿道カテーテルへ浸潤(しんじゅん)すると感染リスクが高まる、気になって夜も寝られない、睡眠不足で日中つらい、と悪循環です。食べたくなくてもお腹はすきますし、食べる量を減らすと体重は著しく減り、お尻の脂肪が落ちて坐骨が褥瘡の危機にさらされます。そんなこんなで、朝と昼の食事を抜いて、夕食は軽く食べ、夜中に漏れるというサイクルで日中の漏れを制御した2週間でした。主治医と相談した結果、しばらく腸管を休めるために経口摂取を控え、その間の水分や栄養は点滴で補おうとなったのです。

 

 さまざまな事象を書き連ねると、とても複雑な印象を与えてしまいますが、端的に言えば、ただ口からの飲食を控えたいだけで、身体の具合が悪いわけではありません。なので、私は、毎日医療機関の外来で点滴をするのではなく、訪問看護で点滴を受けながら出勤したいと思い至ったわけです。

 

 結果的には、①職場への訪問はできない②訪問スタッフ泣かせの血管への対応が難しいという理由で、入院で治療することになったのでした。2週間の休養ののち、今月半ばには仕事へ復帰しています。仮に居宅しばりがなければ、仕事も休むことなく日常生活を中断せずに済んだのだと思うと、やはり疑問を抱かざるを得ません。今回の私のケースは一過性だったこともあり、深刻な問題とはなりませんでした。しかし、目を転じると、人工呼吸器や胃ろうなど日常的に医療ケアが必要な子どもたちにとっては、居宅しばりが重大な問題になっている事実があります。

 

 たとえば医療的ケア児が学校へ通うとき、常時だれかが付き添わなければ通学が許されません。母親が同行することが一般的ですが、そのために母親は働くこともできず、家のこともできず、すべての時間を子どもに費やさなくてはならないのが現状です。これは、子どもの成長にとっても良くないのではないかと私は思います。学校は、家族以外の他者との関わりをもつことによって社会性を身につける場でもあります。常時、保護者がついていては、その機会が多分に奪われるように思えてなりません。

 

 もし居宅しばりがなくなれば、「学校でのケアは訪問看護」という選択肢が増えることになります。医療的ケア児の学ぶ機会が家族の苦労のもとに成り立つのではなく、当たり前に学校へ通えるようになってほしいと思います。

 

 そもそも訪問看護の公的サービスがはじまった発端は、認知症等によって高齢者福祉のニーズが増加したことでした。現場の声に押されて制度化され、高齢者からより若い年齢の方へと徐々に対象が広がって現在の形となった経緯があります。たしかに高齢者やターミナルなど、自宅でのケアを求めている人が多くいることは理解できます。それと同時に、医療的ケアを必要とする人が、社会との接点を持ち続けるための役割も訪問看護に担ってほしいと思うのは望み過ぎでしょうか。

 

 病院や医療との接点が少ない人は「点滴しながら仕事なんて、ありえない」と思うかもしれません。しかし実際は、出勤する、訪問ナースが点滴をつなぐ・帰る、仕事をする、点滴が終わったら自分で外す、また仕事をする、ただそれだけのことです。身体を動かす仕事なら難しいだろうけれど、机でパソコンに向かって電話をとり、窓口でお客様対応をするだけなら、腕に管がつながっていても普段通りの仕事ができます。むしろ、肩こりや頭痛の方がよっぽど支障をきたすのではないでしょうか。過去には、医療用麻薬をポンプで常時血管から投与している時期もありました。その痛み止めがつながっていることが私にとっては日常で、外泊だって普通にできます。日常の中に医療があることは普通であり、何ら特別なことではない人たちも一定数いるのです。そこに健康な人たちが「大変そう」という尺度を安易に押し付けることによって行動が制限される、その最たる状況が医療的ケア児と言えるかもしれません。

 

 日常的に医療ケアが必要な人にとって、「医療」と「日常」は切り離せるものではありません。常に自身の生活とともにあるのです。だからこそ、そういった状況の人たちが普通に学び働ける環境が整備されることを願って止みません。さまざまなアプローチが考えられる中で「居宅しばり」をなくすことは、ひとつの手段に他ならないでしょう。けれども、当事者にとっては選択肢が増えることに意味があり、ひいては社会の多様性につながるのだと私は思います。

<アピタル:彩夏の〝みんなに笑顔を〟>

http://www.asahi.com/apital/column/ayaka/(アピタル・樋口彩夏)

アピタル・樋口彩夏

アピタル・樋口彩夏(ひぐち・あやか)

1989年、東京生まれ。中学2年の時、骨盤にユーイング肉腫(小児がん)を発症。抗がん剤、重粒子線などの治療を経て、車いすでの生活に。「いつ、誰が、どんな病気や障害をもっても、笑顔で暮らせる日本にしたい!」を目標に日々、奮闘中。当事者の視点から建設的に伝えることをモットーに執筆・講演も行っている。