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 今号で、この欄は百回目を迎える。思いもかけない、足かけ八年を超える連載になった。医療の現場のエッセーを書き始めて三十年近くになる。看護や介護の業界誌、地方新聞などでの連載の経験のなかで、この欄が最長となった。山口瞳さんの週刊誌の長期間の連載エッセーに憧れていたぼくには、この八年余りの年月には感慨がある。

 南国土佐でも、四万十は寒い。赤鉄橋を自転車で走る人は川風に前かがみになり、歩行者は首をすぼめている。そんな景色の中で、ぼくの患者さんのいのちとのやりとりは、あやとりのように終わることなく続いている。

 認知症で小規模多機能施設に入所を続けていた、八十八歳の女性がしだいに弱ってきた。車椅子がやっとになり、全身が腫れてきた。食事を摂るのが難しくなった。血液検査では、はっきりとした異常は見られない。

 長男夫婦とケアマネジャーと施設長とぼくとで、施設の事務室で話し合った。入院は望まない、食べられなくなった時は点滴をしてほしい、できるだけ苦しくない最期を、が家族の希望だった。施設としては看取りには異存はなかった。ぼくも、家族の希望にできるだけ添うようにと話をした。

 「これからはいつ何がおこるかはわかりませんが、自然にやってゆきます」と、話の最後にぼくは言った。全く食べなくなって、四週間を患者さんは静かに生き抜いた。

 家族の希望どおり、施設の中で点滴を続けた。それも少量を、血管には針を刺すところがないので、お腹の皮下におこなった。話し合いのあとから、午前中には息子の妻が、午後には息子がベッドサイドに付き添った。

 診察を終えたぼくに、長男が言った。「父の時は入院してすぐの最期で、苦しそうでつらかったです。こうやって本を読みながら母の横で過ごせるのも病院じゃないからでしょうね」と、穏やかな言葉だった。

 施設の介護職員も落ち着いていた。静かに自然に時間が流れて行った。早朝に点滴に行くと、夜勤の時間の様子を職員が知らせてくれる。「なじみの中で看取りをしよう」という気持ちに職員もなっていた。

 日曜日の昼に、ぼくがたまたま診察に部屋に入ると「今まで静かに息をしていました」と息子の妻が言った。弟夫婦も見舞いに来ていた前で、ぼくは臨終を告げた。静かな最期だった。

 かかわった施設のたくさんの職員が集まって、寝台車を見送った。施設でも在宅と同じように、十分に満足できる最期はある。病院ではなく施設の看取りがもっとあっていい。なじみの中でもっといい仕舞いができるはずだ。

 寝台車を送った後、施設の職員のみんなに「いい仕事ができたねえ。よかった」と、ぼくは頭を深く下げた。

 

<アピタル・診療所の窓辺から>

http://www.asahi.com/apital/column/shimanto/(アピタル・小笠原望)

アピタル・小笠原望

アピタル・小笠原望(おがさわら・のぞみ) 大野内科院長

1951年高知県土佐市生まれ。76年弘前大医学部卒、徳島大第一内科入局。77年高松赤十字病院内科。88年同病院神経内科部長。97年大野内科(旧中村市)。2000年同院長。「かかりつけ医としての在宅医療、神経難病、こころのケア」に、「四万十のゲリラ医者」として活動中。02年から朝日新聞高知版柳壇選者。