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 認知症がある程度進行してくると、自分がいる場所がわかりにくくなったり、時間の感覚がわかりにくくなったりする「見当識障害(障がい)」が見られます。この見当識障害が原因で、いま自分が歩いているところが突然、わからなくなり、「どうしよう」と頭が真っ白になって、うろたえながら帰り道をさがす。こんな行動を「徘徊(はいかい)」と呼んでいます。

 このとき、軽い意識混濁を伴う「せん妄」の状態になっている人も一部にはいますが、一般の人がイメージするほど「ぼんやり」と出ていく人ばかりではありません。帰り道を必死で探しながら「行方知れず」になっている人が実は多いのです。

 

おれはまだ大丈夫なはず・・吉川英雄さんの困惑

 10年ほど前の事です。当時78歳のアルツハイマー型認知症(中等度)の吉川英雄さん(仮名)は、年齢に不相応なほど体力がありました。早く妻を亡くし、娘さんと同居し、これまでずっと朝夕の1人での散歩を日課にしていました。若いころからラグビーで鍛えた強靭な体は彼の自慢でした。

 その日も、彼は凍てつくほど寒い朝の街に出かけていきました。1時間半かけて、川岸から堤防を抜け、隣町まで向かいます。夕方も隣町のショッピングセンターに出かけ、娘が仕事から帰る前に夕食の惣菜を買うのがいつもの日課でした。

 ところが、家を出ていつものように堤防に向かって歩き出した途端、吉川さんは自分の頭の中が真っ白になっていく感覚になりました。

 「おかしいな。この道はどこに向かうのだっけ」

 そのとき胸がドキン、として不安がよぎりました。

 「あれ、いつもなら考えなくても体が動いたのに…」

 そんな風に思うほど、頭の中は混乱して、ここがどこなのかわからなくなっていきました。

 吉川さんは、アルツハイマー型認知症だと診断されていて、専門医からは「もし、場所や時間がわかりにくくなれば、遠慮なく相談してください」と言われていました。

 「けれど、おれはまだまだ大丈夫なはず」との思いもあります。

 必死に「落ち着いて、落ち着いて」と自分を安心させようとつぶやきます。そう思うほどこころが乱れます。

 落ち着いて180度自分の向きを変えれば、さっき出てきた自宅の玄関が見えたのですが、そのことすら気が付きません。突然、今いるところがわからなくなってパニックを起こしてしまいました。

 「どうしよう、道を歩いている人に自宅を聞くのは恥ずかしい。そんなことをするより、これまで通りに堤防に行けば、いつものように帰り道が難なくわかるかもしれない」

 吉川さんの頭の中を様々な思いがめぐります。

 「恥ずかしい」という思いと、「こんなことになった」という落胆。そして、希望をなくさないように「何とかなる、大丈夫」と必死に自分を励ます気持ち。

 

 幸いなことにその日は30分ほどすると、今いる場所がどこなのかわかりました。

 「ああよかった。こんなことは二度と起きないように」と彼は願ったのですが、その気持ちは半年後には打ち砕かれてしまいました。頻繁に道に迷うようになってしまったからです。

 吉川さんは散歩のとき、「大丈夫、おれは大丈夫」と思いながら、血相を変えて毎日歩くようになりました。近所の人も「吉川さん、わき目もふらずに急いで歩いていくけど、あの顔を見ると声をかけづらい」と思うほど、切羽詰まった形相で歩いていたのでしょう。

 

 その後、娘さんからの依頼で介護保険の手続きが終わり、ものわすれ外来にも通うようになりました。それで、吉川さんの不安は少し軽くなりました。症状が良くなることはないのですが、担当の医師が吉川さんに「今、起きていること」を病状と共に説明してくれます。自分がどうなっていくのかわからない恐怖感を払拭できれば、その時は頭の中が真っ白になっても、次の診察の時には、対策を話し合うことができるからです。

 

「ぼんやり」歩いているわけではない、「温かいまなざし」を

 メンタル領域で使われている専門用語には古典的な表現のものが多く、「徘徊」という言葉もその一つです。「徘徊」という言葉は、「どこともなく歩きまわる」(広辞苑)という意味があるため、「何もわからない人が、ぼんやりと意味もなくふらふらと歩き回る」といった様子をイメージする人も多いと思います。

 しかし、私がこれまでに担当してきた認知症の人の中には、吉川さんのように「何とか自分の帰るべき道を見つけよう」と必死になって歩き、疲弊して見つかる人がたくさんいました。つまり、「徘徊」は、認知症の「見当識障害」が原因で、本人も何かしら理由があって歩いているのです。

 こうした人たちに対しては、とくに地域や周囲の人の「温かいまなざし」こそが必要だと私は常々思います。

 最近では、「徘徊」という言葉が想起させる差別的、偏見を少しでもなくそうと、自治体の中ににも「徘徊」という言葉を使わないようにしようという動きが見られます。こうした試みが広がってきたことはとても大切な流れです。

 その背景には、認知症という病気による行動障がいがなぜ起きるのかを理解する。そして、自分は見て見ぬふりをするのではなく、積極的にその人の「困りごと」にかかわろうとする。そうした地域の「温かいまなざし」が、少しずつ増えていることがあります。

 

かつてのつらい経験から

 読者のみなさんは、かつて認知症の人が列車にはねられ、家族が振り替え輸送費などの名目で、鉄道会社から損害賠償を求められたニュースを覚えていますか。長年の苦難の末に、ご家族は裁判で勝訴しましたが、認知症のために事故にあったご本人も、そのことで訴えられた家族にも大きな悲しみが残ったと思います。

 私がこれまでに担当した人の中にも、いわゆる「徘徊」行為をして、家族や地域の人がさがしても見つからない人もいました。数日後に見つかったある人は、地域にある公園で、頭を棒のようなもので殴られて頭蓋骨が陥没骨折していました。もはや事故ではなく事件です。担当医として大変申し訳なく思いました。

 

 「徘徊」と言われる行為をしている人のうち、少なからぬ人が吉川さんと同じような思いをしているのです。街で困っている認知症の人を見かけたら、「少しおせっかいかな」と思っても、「何かお困りですか」と声を掛けてみてはどうでしょう。そうした「勇気ある」振る舞いが、不安と絶望によって壊れそうな、みなさんの周りにいる「吉川さん」のこころに明かりを灯す大きな力になるでしょう。

 

 次回は在宅ケアの限界について考えます。

 

<アピタル:認知症と生きるには・コラム>

http://www.asahi.com/apital/column/ninchisyou/

 (アピタル・松本一生)

アピタル・松本一生

アピタル・松本一生(まつもと・いっしょう) 精神科医

松本診療所(ものわすれクリニック)院長、大阪市立大大学院客員教授。1956年大阪市生まれ。83年大阪歯科大卒。90年関西医科大卒。専門は老年精神医学、家族や支援職の心のケア。大阪市でカウンセリング中心の認知症診療にあたる。著書に「認知症ケアのストレス対処法」(中央法規出版)など