[PR]

「終活」という活動が提唱されてから久しい。終活を巡るさまざまな書籍が刊行され、支援するアドバイザーや団体ができ、市民のためのセミナーが各地で開催されるなど、活動はますます盛んだ。とくに、自分もそろそろ考えておこうかという年代、あるいは肉親の介護をかかえている年代を中心に関心が高いように見受けられる。

「終活」とは、人生の終わりに向けて備えをする活動であり、あらかじめ考え、いざというときに自分の気持ちに添った結果となり、また残される家族をはじめとする周囲の人々が困らないようにしておこうとするものだ。考えることには例えば次のようなものがある。

 

・自分の葬儀やお墓についての希望

・残していく財産・持ち物をどうするか

・残されるペットの行く末

 

終活は単に終わりのためだけでなく、今後も自分らしく生きるためのものであるといった説明がされることもあるが、行うこととしては、上に挙げたようなことを指していることに違いはない。

「終活」は、一説によると週刊朝日が使い始めた造語だそうである。就職を目指す「就活」、結婚を目指す「婚活」といった造語法にならって造られ、超高齢社会の状況を反映して、関心を持つ人が多いことから、「終活」という語はその活動と共に社会に認められ定着している。

「終活」というとすぐに思い浮かぶのは、書店に並ぶ「エンディングノート」の数々である。まさに人生の終わりに備えるノートであって、残された家族があちこち探さないで済むように、所持する銀行通帳のリストをはじめ財産のリストを作っておくページがある(ただし、財産分配は法的効力のある遺言書で行うとして、エンディングノートには書く欄がないことが通常)。

また、葬式はどうしてほしいか、誰を呼ぶかといった希望を書くページもある。自分の墓はどうするかを指定するページもあって、通常の墓でなく、海にまいてほしいと書くこともできる。

以上のようなことなら、「終活」とは自分が死んだ後のことを考え、周囲の人に後始末をぬかりなく頼もうとする活動だということになる。遺言の拡張版で、ただし法的効力はないと考えればわかりやすい。

 

だが、各種エンディングノートが扱うことはこれだけではない。

例えば「老い衰えてきたらどこで暮らしたいか」を書くページがあるものが見受けられる。こういうページを見ると「これってエンディングについてのことなのか?」と突っ込みを入れたくなる。まるで「独りで生きるのが難しくなったら、もうエンディングだよ」と宣告しているみたいではないか。

また、大方のエンディングノートには、死に至る最終の時期に「どうしてほしいか」を周囲の人(とくに医療関係者)に対して意思表示しておくページがあり、大同小異、次のような内容になっている。

 

「近い将来の死が避けられない状況になった時に、あなたが受けたい/受けたくない治療/ケアを書いておきましょう」

 

見出しはまあ、こんなところである。それで次のようなリストが並び、〔やってほしい/やらないでほしい〕を選ぶ(どちらかに〇をつける)ようになっている。

 

・延命を目指す治療

・人工呼吸器

・水分・栄養補給

・人工透析

・心肺停止した時の心肺蘇生

・痛みなどを緩和してつらくないようにすること

 

もっとも、多くはここまで細かくは指定せず、もっと簡単に「少しでも長く生きるようにしてほしい」か「ただ長く生かそうとしないでよいから、つらくはないようにしてほしい」かを選ぶ程度で済ませている場合もある。また、「あなたが自分で治療を選ぶこと、またそれを表明することができなくなった時に、誰に代わりに考え、選んでほしいですか? その方の名前を次に書いておきましょう」という項目があるものもある。

とにかく、この部分も、自分の死後のことではなく、死に至る最後の部分のことである。

このように、エンディングノートを書こうとする読者は、自分の葬式や墓について考えるのとは違い、まだ生きているが、いわば「死にかけている自分」のことを考えるように誘導される。

終わってからのことは考えやすい。誰もがみな「いつか」終わることを自覚している。でも「今」ではない。終わった後は後始末。言い残しておけばいい。

だが、終わるまでの最後(=最期)の部分は考えるのがなかなかつらい。その時、まだ自分は細々と生きているからだ。自分がつらかったり、周囲の人がつらかったり、あるいはいろいろな思惑があったりで、「今は考えたくないなあ」と後回しにしたくなる。

若くて元気な時は、まだ自分のこととして現実感がないので、気軽にさらっと書けるにしても、そういう時には書いておく必要性が感じられないので、やはり後回しになる。

 

要するに、「エンディングノート」が扱っていることのうち、自分の死後のことに備えることと、死ぬまでのこと、とくに死の直前のことに備えることとは区別した方がよい。

老いて弱った時のことや死の直前の医療・ケアのことは、ノート全体のほんの数ページでしかない。その部分を削除してしまえば、残った部分は、「自分の死後に備えて今からやっておくことをやろう」という終活としてすっきりする。

「終活」をこのように定義すれば、自分が衰えて死の床についているというような状況を、感覚的に嫌だなあと思いながらイメージする必要はない。いつかくるだろうけど、いつとはわからない死を飛び越えて、その後のことに備えればよいのである。

ここで考える世界には、自分はもういない。自分がいなくなった世界を上から見下ろすようにして考えればよいので、気持ちの負担も少なくて済む。こうした状況を想定して備えることは重要な活動であり、私も今からちゃんとしておかねばとまじめに思っている。思うだけで、ご多分に漏れずまだ書き始めてもいないが。

 

では、「終活から除外した死の直前のこと」にはどう備えたらよいか。

死の直前のことだけを考えるのではなく、今から最期までのこと全体を考えましょうとお勧めしたい。それは超高齢社会になった現在の日本においては、多くの人にとって「今は元気だけれど、これからだんだん衰えていく老いの時代をどう自分らしく生きぬくか」を考えることに他ならない。

自分らしく生きていければ、その先にいつのまにか死の直前という時期もあるだろうけれども、そこだけとりあげて考えないで、「これから終わりまで生きる」こととして全体を見通しましょう、というのが「老活」のおすすめなのである。「死ぬこと」を考えるのではなく、「老いさらばえてなお生きる」ことを考えましょうというわけだ。

「老いを生きる活動」を「老いてなお活き活きと」というスローガンのもと進めましょうというので、個人的には「老活」を「オイカツ」と呼んでいる。次回から「老活」をより詳しく考えていきたい。

<アピタル:老活でいこう>

http://www.asahi.com/apital/column/oikatsu/

(アピタル・清水哲郎)

アピタル・清水哲郎

アピタル・清水哲郎(しみず・てつろう) 岩手保健医療大学・学長

1947年東京近郊生まれ。69年東京大学理学部天文学科卒。その後、東京都立大学学部・大学院で哲学を専攻。北海道大学、東北大学大学院の哲学教員、東京大学大学院の死生学・応用倫理特任教授を経て、2017年より現職。医療現場に臨む哲学を試み、医療従事者と共同で臨床倫理検討システムの開発に取り組む。老いの季節をどう生きるか、自らを実験台にしつつ読者と共に考えたい。