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 せん妄や幻覚、不眠など認知症の中等度から見られることが多い行動面の「障がい(障害)」について書いてきました。これからは、症状が進むにつれて出てくる認知症のさまざまな症状や「看取り」についても考えていきたいと思います。まず、今回は認知症とともに生きる本人と常に向き合っている「介護家族」に焦点をあててみます。

 実をいうと、私のこれまでの精神科医としての臨床での歴史は、そっくりそのまま自分が「介護家族」であった年月と重なっています。私にとっては、「医者として認知症に理解を示している」というよりも、「これまでずっと家族の介護を続けてきた私がたまたま医者だっただけ」というのが実感です。それほど、介護と不可分な人生を生きてきました。

 私も妻も「ひとりっ子」です。それぞれの親の介護は覚悟していましたが、妻の父は胃がんで急に亡くなり、歯科医だった私の父は糖尿病で何年か苦しみましたが、夜の診療を終えたある日、胸の痛みを訴え、その日に急逝しました。なので、父親については、介護をすることはありませんでした。

 一方、妻の母の介護は27年続きました。気分が沈み、一人で住むことができなくなったため、京都の自宅に呼び寄せ、在宅で介護を続けました。改善したかと思うと、再び沈む日々をくり返し、そののちにもの忘れが表面化し始めて在宅介護は限界を迎えました。

 そして、京都の自宅からそう遠くないところにあるケアハウスに入所しました。しばらくすると、妻の母の状態は安定し、誤嚥(えん)性肺炎で亡くなるまでの7年間は穏やかに過ごすことができました。

 妻の母の介護が終わろうとするころ、今度は私の母に大腸がんが見つかりました。直腸や肛門付近にできやすい大腸がんが、反対側の盲腸から発生し腹部全体に広がっていました。気づいた時には「手遅れ」でした。それでも医師であった母は「死ぬまで診療を続ける」と言って、亡くなる1か月半前まで、外来で内科、眼科の診療を続けました。

 お互いの両親を見送ったころ、妻の異変が始まりました。気分が不安定になり食事も作れなくなり、何度も入院や救急搬送をくり返しました。2013年の秋からは、本格的に「味を感じること」ができなくなりました。妻の母にも同じ年齢のときに同じ症状がありました。遺伝疾患ではないのですが、同じような経過で病気が出たようです。

 2014年の夏にはパーキンソン症状に加えて、食事を作ることはおろか、買い物にも行けなくなりました。認知症ではないので、妻は自分の意見は言えますが、生活ではずいぶん手助けしなければならなくなり、秋には私は本格的に「介護家族」になりました。

 

 それ以降、私の1日は大きく変わりました。朝、妻の食事を準備し、日中、自宅の下にある診療所で認知症の人やご家族にお会いして診察を始めます。夕方には診察を終え、買い出しをして夕食を迎えます。妻が寝た後には仕事のメールや研究などをして翌日の診療に備え、就寝します。

 私の生活は変わりましたが、介護家族でありながらも専門医である自分にしかできない役割を果たしたい、との思いをより強くしました。

 

 不安やこだわりが強い妻の病気の介護をする私も大変だと自分でも思いますが、認知症でも同じような症状が出る人もいて、読者の中には私の経験に共感を持ってくれる人もいるはずです。そういう意味では、介護家族となった途端にこれまでの人生から距離を置かなければならなかった人たちと、私は同じ立場の「仲間」です。

 

妻の介護、家事、会社経営・・どれもあきらめられない

 43歳の妻が若年性認知症(アルツハイマー型)と、大学病院で診断を受けた野宮一郎さん(47歳 男性)。診断から3か月がたち、途方にくれていました。高校3年生の娘と中学2年生の息子の2人、そして九州に住む妻の母親だけが家族です。他にきょうだいがいない野宮さんは、妻のケアだけでなく、同時並行でやらなければならないことがいくつもありました。ひとつは自らが経営する家具店の経営です。社員3人の小さな会社なので、野宮さん自身が家具づくりと営業をしなければ店は続けられません。

 そこに加えて妻の受診と日々の家事。これまでは仕事が遅くなっても妻に任せておけばよかったことのすべてが、野宮さんの担当になりました。店を終えて帰りがけに食材を買い、帰って夕食の支度、妻の入浴が彼を待っています。これまでは商談で泊りがけの出張をすることもありましたが、それもすべて日帰りで済ませなければならなくなりました。

 そんな彼を見て高校3年生の娘は夕食の手伝いをしてくれるようになり、「大学進学はあきらめて、お母さんの介護をする」とも言ってくれました。しかし、野宮さんはそれだけは認めたくありません。大切な娘の将来です。高校3年の大事な時期に受験勉強もさせずに母親の介護をやらせるわけにはいきません。息子も同様です。最も輝く時期に子どもたちの可能性を捨てさせたくはありません。

 しかし、ここには大きな壁がありました。43歳で発症した妻は、その若さゆえにデイサービスやショートステイなどの介護サービスの利用は一切認めようとしません。「私、そんなことできるわ。そんなところには行かない」と、何度すすめても拒否します。

 野宮さんの日常は、次第に仕事ではなく妻の介護のほうに重点を置かざるを得なくなってきました。自分にしかできないことは自分でやりながらも、それ以外のことは社員に任せて、店を閉める時間も早くなりました。経営者として、介護家族として、仕事と介護を両立しようと努めました。妻が介護を受け入れてくれるまで歯を食いしばって仕事と介護も続けましたが、体調を崩することは一度や二度ではありませんでした。数少ない社員は理解してくれていますが、彼らにだって生活はあります。仕事や勤務時間が少なくなれば、給料が減ってしまいます。不安だったことでしょう。

 読者のみなさんはこの話を読んでどう思われますか。世にも珍しい誰かの特別な話だと思いましたか?実はこの人はもう10年以上前に私が担当した人の話です。個人情報の保護から細かな点は変更しましたが、このような状況で妻を看取るまで働き続けた社長さんがいたことは、まぎれもない事実です。

 

病気の種類や家族の状況はそれぞれ異なるでしょうが、このような介護風景は今ではあたり前になってきていると思います。

 もし、野宮さんが自営業ではなく、会社勤めだったら事態はどのようになったでしょうか。仕事の時間調整はできたでしょうか。上司や部下は受け入れてくれたでしょうか。まだまだ認知症や介護に対してそれほど寛容ではない経営者や職場は少なくありません。

 認知症の人と生きるには、その人を理解し、その人を介護している家族のことを理解する周囲の寛容なまなざしが不可欠です。あなたの周りにも私や野宮さんのような「介護家族」がいるかもしれません。

 

 次回は、「介護家族のこころの変化」について考えます。

<アピタル:認知症と生きるには・コラム>

http://www.asahi.com/apital/column/ninchisyou/

(アピタル・松本一生)

アピタル・松本一生

アピタル・松本一生(まつもと・いっしょう) 精神科医

松本診療所(ものわすれクリニック)院長、大阪市立大大学院客員教授。1956年大阪市生まれ。83年大阪歯科大卒。90年関西医科大卒。専門は老年精神医学、家族や支援職の心のケア。大阪市でカウンセリング中心の認知症診療にあたる。著書に「認知症ケアのストレス対処法」(中央法規出版)など