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 予期せぬ事故や自殺、虐待などで、子どもの命が繰り返し奪われている。再発防止のためにできることは何か。日本の社会は、子どもの死をどのように考えていくべきなのか。

全ての死亡例、国が検証を 山田不二子さん(NPO法人チャイルドファーストジャパン理事長)

 防ぎうる子どもの死を止めることは、国の責務ですが、まだ機運は高まっていません。私は亡くなった子どもの死因を分析し、改善策を提言して予防につなげるチャイルド・デス・レビュー(CDR)制度の導入が必要だと考えています。

 導入をめざす活動の原点は、夫と開業する神奈川県のクリニックに患者としてきていた女性が、後に生後間もない我が子を風呂に沈めて殺害する事件があったことでした。「産後うつ」だったとして不起訴になり、入院して精神的な治療を受けたそうですが、私は「なぜ、殺す前に治療できなかったのか」「何かしくみがあれば、救える子がいるのでは」と思いました。

 CDR制度は、英語圏の国々を中心に定着が進んでいます。もとは1978年に、米カリフォルニア州ロサンゼルス郡で、虐待死を見逃さないために始まったとされています。現在、取り組みは事故死や自死の予防、遺族の心のケアなどにも広がっています。

 国によって制度は細かく異なりますが、基本はすべての死を検証します。病死と判断されたなかにも、虐待や予防可能な死が含まれている可能性があるためです。警察や行政、医師、学校などから書面を提出してもらったり、聞き取りをしたりして、あらゆる情報を集めます。多機関の専門家らでつくる委員会が、防ぎ得たケースだったかどうかを検証し、具体的な防止策の提言をまとめ、公表します。

 たとえば米国では、CDRを通じて「子どものいる家庭では、自宅のプールには柵をするべきだ」と提言がなされたことで、子どもが溺れて亡くなる事故を減らす効果が出ています。

 ただ、全体の死亡率が大きく下がるほどではありません。それでも、各国がなぜ、人とお金を投じるのか。導入している国の人たちに国際学会などで話を聞くと、「子どもを守ることに国が手抜きをすることは許されない」という答えが返ってきます。

 一方、制度の導入を求めて日本の省庁を回ると、自分の省庁の責任分野かどうかに関心が偏っていて、違いを感じます。子どもの命の問題なのに、費用対効果を気にしている。国家としての視点が欠けています。

 むろん、日本に「死に学ぶ」という姿勢がないわけではありません。虐待や保育事故、いじめによる自殺などは、各省庁が音頭を取って検証と予防の作業をしています。ただ、検証が要因別に分断されており、はざまで抜け落ちるケースがあるのです。

 死亡事例の検証には捜査情報が欠かせませんが、日本では共有が難しい。捜査情報の共有や検証を義務づける法律をつくることが、大きな推進力になると思います。

 (聞き手・後藤泰良)

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 やまだふじこ 1960年生まれ。内科医。日本子ども虐待防止学会「CDR制度構築ワーキンググループ」のリーダー。

「指導死」認め、再発防いで 安達和美さん(「指導死」親の会共同代表)

 次男の雄大(ゆうだい)は2004年3月、通っていた長崎市内の公立中学の4階から飛び降りて死亡しました。14歳でした。

 学校の掃除のときにライターとたばこを持っていたことが見つかり、放課後に担任から指導を受けました。喫煙行為を知る友人の名前を挙げさせられ、「両親に報告に行く」と言われました。担任が席を外した隙に、友人らへの謝罪の言葉をノートに走り書きし、その後、「トイレに行きたい」と言って教室を出て、飛び降りました。

 少しやんちゃですが、友人が多く、あの日の朝も元気に登校していきました。自殺など思いもしないことでした。

 学校の対応には不信感を抱きました。校長が直後に「行き過ぎた指導はなかった」と発表し、保護者会ではカウンセラーが「以前から悩んでいた」などと発言しました。市の教育委員会は「事故」と県教委に報告していました。

 学校や市教委は、指導が原因で自殺したことを認めませんでした。なぜ雄大が死ななければならなかったのか。明らかにするために、市に損害賠償を求めて提訴しました。判決は違法性を認めず、訴えを棄却しました。ただ、走り書きの遺書の内容などから「教師の指導を受けたことを重く受け止めたことは明らかであり、教師の指導がなければ自殺することがなかったことも明らか」として、「指導と自殺との間には事実的因果関係がある」と認めました。

 提訴前に、図書館に通って新聞を調べると、学校での指導後の自殺が少なくないことがわかりました。カンニングや喫煙を叱責(しっせき)され、子どもが「トイレに行きたい」と言って退室したり、先生が「親に報告に行く」と言ったりした後の発生で、共通点がありました。最近でも指導中に一人にされて、自ら命を絶つ子どもは後を絶ちません。

 適切な指導は、してもらっていいんです。ですが、指導によって自殺が起こりうるということを認めなければ、同じことが繰り返されます。暴力がなくても、子どもは追い詰められて死ぬことがある。先生がそこを意識していれば、言いすぎたときにフォローすることもできます。

 ほかの自殺や事故なども同じだと思いますが、なぜきちんと事実を認め、「次」を防ぐことにつなげないのでしょう。死を心から悼み、二度と繰り返さないという思いが関係者から伝わってこないのは、遺族としては悲しいとしか言いようがありません。

 同じように子どもを亡くした方々と、「指導死」親の会を立ち上げて活動をしていますが、私は生きている限り、声をあげていくつもりです。指導死は、防げる自殺だと思っています。

 私にとって、雄大はいつまでも14歳のままです。

 (聞き手・編集委員 大久保真紀)

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 あだちかずみ 1961年生まれ。「学校事故・事件を語る会九州」呼びかけ人、子どもの権利条約ながさきネットの世話人。

死生、社会に語り合う場を 山崎浩司さん(信州大学医学部保健学科准教授)

 死の忌避は、近代社会に共通して見られます。ただ、他人の死、自分の死、大切な人の死では、それぞれ忌避される度合いが異なります。

 自分と関係ない他人の死は、マスメディアで日々接しています。また、「終活」ブームに見られるように、自分の死も少なからず語られるようになっています。

 しかし、大切な人の死に対する忌避感は強くあります。考えたくないし、話をされてもどう応じていいかわからない。特に、子どもの死は社会的に重くとらえられています。遺(のこ)された親やきょうだいにとってたまらないだけでなく、同級生など友人への影響も大きい。オープンに話し合い、対応を考えることは難しいのが現状です。

 近しい人との死別は悲しみだけでなく、遺された人に死生について多くの疑問を抱かせます。そのような感情や疑問を表出できる場を設けることが、大切です。場がないままになると、ずっと悲しみや疑問を独りで抱え、精神的に孤立してしまいます。

 人の死は、かつての村社会では共同体のできごとでした。死に関する儀礼があり、「悲しみの型」がありました。でも、共同体の解体が進んだ現代社会では、死は家族単位、または個人単位のできごととなりました。遺された人は型から解放され、困難や悲嘆への対応は人それぞれになり、自由に悲しめるようになりました。ただ、多様化した死別の悲しみを社会が柔軟に受け止めなければ、社会的な孤立が生じてしまいます。

 私が以前調査したスコットランドでは、死は個人や家族にとっての喪失であるとともに、社会の喪失とも受け止められていました。背景には、おそらくキリスト教的な「苦を共にする」という精神だけでなく、合理的な考え方があります。死別の困難により社会的役割を担えない遺族がこれだけ増えると、社会の経済的損失はこれほどにもなる、などと試算する。死は社会全体で対応すべき事柄、という考え方が定着していました。

 一方、日本ではなかなかそうはいきません。死者の多さから耳目を集める自死や災害死に対してでさえ、社会の喪失ととらえ、全社会的な対策が施されるようになるまで時間がかかります。ましてや、病死など、ありふれた「ふつうの死」については、対策の必要性はなおさら認識されていません。

 死はだれにでもやってきます。人間の生から死を切り離すことはできません。そうであるならば、いま以上に、子どもの死を含む死全般について、安心してオープンに考え、語り合えるようにする必要があります。この取り組みの先に、人々が死別で社会的に孤立することのない社会の到来があると考えています。

 (聞き手・大久保真紀)

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 やまざきひろし 1970年生まれ。専門は死生学、社会学。共著に「死生学のフィールド」(3月20日出版予定)など。

 

<アピタル:オピニオン・メイン記事>

http://www.asahi.com/apital/forum/opinion/

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