拡大する写真・図版 イラスト・ふくいのりこ

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 熱心な介護者ほど日々の介護の負担に追い詰められ、「善意の加害者」になってしまい、虐待や不適切な行為をしてしまうことがあります。そのことについては前回触れましたが、改めて「高齢者への虐待」について詳しくみていきたいと思います。

 

 「『高齢者への虐待』イコール『認知症への虐待』」ではありません。しかし、密接に関係があることは確かです。私がかつて高齢者虐待の防止にかかわっていた時の当院のデータをみると、高齢者虐待を受けた人の70~80%には認知症がありました。ただ、みなさんもご存知のように若年性認知症の人への虐待的行為もありますので、必ずしも高齢者とはならない場合もあります。

 

高齢者虐待の5つのかたち

 ここで高齢者虐待について少し説明したいと思います。虐待とは当事者に何らかの「不都合」や「苦痛」を与えてしまうことです。たとえば、高齢者虐待防止法という法律では、高齢者虐待について、

(1)身体的虐待:殴る、蹴るなどの身体への暴力を与える

(2)心理的虐待:尊厳を損なう言葉で罵倒し、無視や侮蔑的態度を見せる

(3)経済的虐待:本人が所有する金品を取り上げたり、処分したりする

(4)性的虐待 :本人が同意しない性的行為をおこなう

(5)介護忌避(ネグレクト):食事を与えなかったり、放置したり、するべき介護をしない

 

といったものに分類されています。

 

 どのような行為をするかに着目した分類以外にも、家庭内で行われるもの、施設で行われるもの、などの分け方もあります。

 私が常に気を付けていることがあります。本人に対して悪意や否定的な感情を持って行われる虐待だけでなく、悪意などみじんもなかったにもかかわらず、日々の介護負担から介護者が思ってもみなかった行為に及んでしまうこともあります。まさしく、前回テーマにした「善意の加害者」はそれにあてはまります。

 

 もちろん、虐待的行為(不適切行為)を私たちが発見した場合には、行政や地域包括支援センターなどを通じて通報しなければなりません。なぜなら虐待を受けている本人を身の危険から守ることが最も大切なことだからです。

 「悪意」の虐待は言うまでもなく、たとえ介護者が日々の介護に追いつめられた結果、思ってもみないような行為に及んでいる「善意」の場合でも、本人の保護は第一に考えるべきことです。

 ただし、その時に忘れていけないのは、加害者の立場になった介護者への配慮です。

 かつて、私の経験でも「これ、虐待行為!」と指摘されて、我に返った介護者が、その後、自分の行為を反省し、さらに自分を責めた結果、自死(自殺)してしまったこともあるのです。

 認知症の介護では、これまでに書いてきたように、介護する家族など、本人と最も近い距離で生活する人に対して、被害感や攻撃性などが向けられやすい傾向があります。そのため、もともとは熱心に介護している介護者でも、くり返される負担が過剰になると、つい、不適切な行為をおこなう状況まで追いつめられることをわれわれみんなが理解しなければなりません。

 

都心の高層マンションで介護を拒否する老夫婦

 しかも、5つの分類に入らない6つ目の「虐待行為」こそ、認知症と生きる社会にとって、最も大切なテーマなのかもしれません。

 都心の高層マンションで暮らす田辺喜一さん(仮名81歳)と妻の和代さん(仮名79歳)は数年前に引っ越してきました。それまでは、40歳のころから住み始めた郊外のニュータウンから、自ら経営する建設会社まで通勤していました。子どもたちも独立して夫婦二人だけになったのを機に、「便利な都心のマンションに住もう」と喜一さんが言いだしたためでした。

 当時、自らの会社が建てた30階建てのマンション(タワーマンション)の最上階に自宅を移したのは良かったのですが、それから何年かした頃に、和代さんがアルツハイマー型認知症になりました。

 これまで介護経験などない仕事人間の喜一さんでしたが、頑張って介護を続けました。しかし、数年後、娘さんが喜一さんの異変を感じて受診したところ、喜一さんにも血管性認知症になっていることが分かりました。

 急いで介護保険の手続きをして、二人とも要介護1と認定されるまでは良かったのですが、その後、大変なことになりました。二人は自宅にケアマネジャーやホームヘルパーを全く入れようとしません。

 「私たちはしっかりと生活できている」「人の手は借りない」「娘の世話にはならない」と言い、高層マンションの最上階で誰の手も借りようとしない「介護拒否」の状態になってしまいました。

 

 医療機関での診断を受け、娘さんもその家族もみんなが介護の必要性を感じていました。それにもかかわらず、ふたりはあらゆる介護を受け入れようとはしません。あらゆる事が「自分でできている」と言いますが、風呂にも入らず、食事も買い出しも思いついた時にだけやっているようです。娘さんも、玄関先までしか入れてもらえず、ふたりがどんどん痩せていくのがわかるようになりました。

 

最も注意すべき虐待「セルフネグレクト」

 このような二人の姿こそ、これからの認知症社会で最も注意しなければならない「セルフネグレクト」です。「介護忌避(ネグレクト)」は、介護すべき人が介護をしないことを指すのに対して、「セルフネグレクト」は本来なら介護してもらうべき人自身が、介護を受けることを拒んでしまう状態です。そうした人の多くは認知症があり、自分の生活ができていないことをわかっていない場合があります。

 喜一さんの場合も、当初は奥さんの介護者として日々を送っていましたが、少しずつ血管性認知症が始まり、多くのことができなくなっていきました。それにもかかわらず、彼は「自分でなんでもできている」と思いこんで、高層マンションの部屋に閉じこもってしまいました。

 

 田辺さん夫婦の場合には首都圏に住む息子さんがいたことが幸いしました。近くにいる娘さんと息子さんが協力して、ケアマネジャーや地域包括支援センターに連絡をし続けました。だからといって、すぐ介護サービスが導入できたわけではありません。

 ずいぶん時間がかかりましたが、それでも1年後、喜一さんが風邪をこじらせて奥さんの介護ができないことを実感した時、息子さんに電話がかかってきました。

 「体が動かない、何とかしてくれ」

 この一言をきっかけにケア体制はずいぶんと前進しました。喜一さんが「自分で何でもできている」と思っているときには、周囲の介護職が入るすきはありませんでした。助けを求めたこの時こそ、間髪を入れずにかかわるチャンスだったのです。セルフネグレクトの状態は改善し、今ではホームヘルパーや訪問看護など、多くの介護サービスが確立し、子どもさんたちも胸をなでおろしました。

 

「関与しながらの観察」 いま、この場でできなくても・・

 サリヴァンという米国の精神医学者が残した言葉に「関与しながらの観察」という概念があります。私たち精神科医はこの言葉を大切にしています。

 子どもを診ていく親や教師、医師らが、自らも巻き込まれそうになりながら、それでも何とかこの子を支援したいと思ったとき、何もできない場合があります。そんな時、みんながあきらめず連携しながら観察を続け、何か変化があるときに、すぐにかかわれる体制を作っておく。そうすれば、たとえ「いま、この場では」何もできなくても、連携による観察、そのことが大切な「関与」、かかわりになっていると説いています。

 認知症の場合も同じだと私は思います。いま、ここで介護保険や医療がかかわってあげたくてもかかわれない時、家族や支援職が常に連携しながらかかわるチャンスを見逃さない。そうすれば、田辺さん夫婦の場合のように時間がかかるかもしれませんが、チャンスを見逃さない地域のまなざしにより、本当の地域包括ケアが根付くのだと思います。

 

<アピタル:認知症と生きるには・コラム>

http://www.asahi.com/apital/column/ninchisyou/

 

 (アピタル・松本一生)

アピタル・松本一生

アピタル・松本一生(まつもと・いっしょう) 精神科医

松本診療所(ものわすれクリニック)院長、大阪市立大大学院客員教授。1956年大阪市生まれ。83年大阪歯科大卒。90年関西医科大卒。専門は老年精神医学、家族や支援職の心のケア。大阪市でカウンセリング中心の認知症診療にあたる。著書に「認知症ケアのストレス対処法」(中央法規出版)など