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【まとめて読む】患者を生きる・視覚を失って

 試合の始まりは、レフェリーのこの言葉。「クワイエットプリーズ」。みなさん、お静かに……。視覚障害者の競技「ゴールボール」の選手たちは全神経を集中し、音を頼りに鈴が入ったボールを追います。20歳で失明した福岡市の浦田理恵さん(40)。絶望の縁から「自分を変えよう」と前向きに歩み、2012年のロンドン・パラリンピックで金メダルを獲得します。

「見えない」事実、怖くて

 視覚障がい者が1チーム3人で、鈴が入ったボールを転がし、相手ゴールをねらうゴールボール。2012年ロンドン・パラリンピックに日本代表として出場し、金メダルを獲得した福岡市の浦田理恵さん(40)が、両目の視力をほとんど失ったのは20歳のころだった。

 小学校教諭を目指して通っていた福岡市の専門学校を卒業する3カ月前、目の異変に気づいた。教室の最前列でも、黒板の字がよく見えない。もともと近視で、「また目が悪くなったかな」とあまり気にしなかった。やがてノートも取れなくなる。「授業を聞きそびれた」とごまかして、友だちに借りた。「見えない」という事実と向き合うのが怖かった。

 だが、厳しい現実を突きつけられた。教育実習先の小学校の行事でプラネタリウムに行った時、子どもたちの表情がまったく分からず、館内を誘導できなかった。暗い場所でとくに物が見えにくくなっていた。担任の教諭に「目の調子が悪くて」と助けを求めると、「では浦田先生はこちらに」と離れた席に座らされた。「これじゃ、先生になれるわけない」。絶望で頭がいっぱいになった。

 道を歩けば、路上に止まった自転車にぶつかる。トイレの場所も探せない。1998年春に卒業後、外出が怖くなった。スーパーに買い物には行ったが、触れた感触や音で判断するしかない。ハンバーグを買ったつもりがおはぎだった。

 事実を知るのが怖くて病院には行けなかった。「網膜色素変性症」と診断を受けるのは3年後のことだ。4千~8千人に1人が発症する遺伝性の難病で、国内の患者数は約2万3千人。暗い場所でとくに見えづらくなる「夜盲」や、見える範囲が狭まる「視野狭窄」を伴って進行する。

 浦田さんの実家は熊本県南関町。専門学校時代は仕送りに助けられ、一人暮らしをしていた。目が悪くなったことを隠し、「学校への就職は競争率が高くて……」と言い訳して仕送りを続けてもらった。帰省を避け、「何しよっとね?」と両親から電話がかかるたび、「次は言おう」と先延ばしにした。

家族に告白、気持ちが変化

 20歳でほとんど視力を失ったパラリンピックの女子ゴールボール金メダリスト、浦田理恵さん(40)は、専門学校を卒業後も両親に打ち明けられず1年半以上が過ぎた。ようやく告白を決心し、22歳になった正月、帰郷した。

 2000年1月、福岡市から西鉄天神大牟田線に乗り、終点の大牟田駅で降りた。実家がある熊本県南関町から母親(70)が車で迎えに来ていた。ホームから落ちないか不安で、記憶を頼りにおそるおそる改札口へ向かった。

 遠くで母親が叫ぶ。「何、てれっと歩きよると」。声の方向を見ても、姿は分からない。「私って本当に目が見えなくなったんだ。最後にお母さんの顔を見たのはいつだっただろう」。さまざまな思いが頭を駆けめぐった。

 何とか改札口を抜け、母親の前に立つと、意を決して告白した。「あのね、お母さん。私、目が見えんくなった」。母親は信じず、「また、そぎゃんこと言って。これ何本ね」と、指を立てた手を出した。気配を頼りに、触って確かめる。「1、2、3……」。母親はその場で泣き崩れた。

 やがて母親から思いがけない言葉が返ってきた。「ごめんね」。気づいてやれなくてごめんね。目の悪い子に生んでしまって、ごめんね……。

 母にそんな謝罪の言葉を口にさせたことに、申し訳なさがこみ上げた半面、安心にも似た気持ちに満たされた。「もう見えるふりをしなくていいんだ」

 父親、祖母、2人の妹。家に帰ると家族みんながこれからの生き方を考えてくれた。山間部の田舎町では車を運転できないと移動が難しいし、仕事も探せそうにない。「福岡で生活出来ているなら、そのままがんばって、自分のやりたいことを探しなさい」と両親は言った。

 長いトンネルから、ようやく抜け出せそうな気持ちになった。翌年、点字などを学ぶため、福岡市立心身障がい福祉センター(福岡市中央区)で生活訓練を受け始めた。そこで出会ったリハビリテーション係の指導員、豊田信之さん(71)に言われた。「見えなくなって、出来ないことを数えるより、出来ることを増やしていけば楽しくなるよ」

料理・メイク…次は仕事

 左目は見えず、右目はかすかに明るさを感じる程度。両目の視力をほぼ失った浦田理恵さん(40)は2001年から、自立を目指して福岡市立心身障がい福祉センター(福岡市中央区)で1年間の生活訓練を受けた。

 「できることを増やしていこう」と指導員の豊田信之さん(71)に言われた。身の回りのことを一通り、自分でこなせるようにする。点字の読み方や白杖を使った歩き方を覚えた。初めて白杖を持って交差点に立った時は、足がすくんで踏み出せなかった。訓練を重ねて、少しずつ怖さを克服した。

 料理も教わった。包丁も使えるようになり、ハンバーグが得意になった。タマネギをみじん切りして、ひき肉と混ぜる。焼き加減は、油がはじける音や匂い、手で触った感覚でつかむ。携帯電話でメールの送受信もできる。入力した文字や受け取った文章を音声で知らせる機能を利用する。

 メイクも練習した。化粧品会社の講師はこう言ってくれた。「自分の顔やろ。どんだけ触っても怒られんよ」。まぶたの位置を指先で確かめながらアイシャドーを入れる。もともと好きだったおしゃれが、また楽しくなった。

 ある日、豊田さんに問いかけられた。「生活訓練は目的じゃなくて手段。本当の目的は自分が何をしたいかを見つけることなんだ。理恵ちゃんは何をしたいの?」

 「目が悪くてもできる仕事をしたい。手に職をつけたい」。浦田さんは1年間の生活訓練を終えると、国立福岡視力障害センター(同市西区)で、マッサージ師になるための3年課程の職業訓練を受け始めた。

 その最中の2004年9月。施設内のテレビが、アテネ・パラリンピックの女子ゴールボールで、日本が銅メダルを獲得したニュースを伝えていた。3人ずつに分かれ、鈴を入れたボールを転がし、音や気配を頼りに相手ゴールを狙う競技。解説を聞きながら興奮した。「本当に目が見えんと?」

 すごい。かっこいい。浦田さんはすぐに行動した。センターの体育館で放課後にゴールボールを指導していたコーチに、一気にまくしたてた。「感動しました。私もやってみたい」

言い訳捨て、力に変えた

 職業訓練を受けていた国立福岡視力障害センター(福岡市西区)で、浦田理恵さん(40)はゴールボールと出合う。練習場を訪ねて「私もやりたい」と訴えると、指導していた女子日本代表のヘッドコーチだった江黒直樹さん(52)に驚かれた。「体力、まるでなさそうだね」

 浦田さんは中学や高校時代、体育の成績は5段階評価で2か3。手足はひょろひょろで、重さ1・25㌔のボールを片手で投げる筋力はなかった。

 最初は体力をつけるためにひたすらウォーキングとランニング。地味な練習の繰り返し。サボろうかと迷うと、決まって先輩の小宮正江選手(43)が声をかけてきた。「練習、来るよね?」。覚えが遅い自分を待ち続け、体を張って教えてくれた。守備や攻撃の正しいフォームを、互いに手で触り合って確かめ、修正を重ねた。

 選手全員が目隠しをするゴールボールでは、見えないことが言い訳にならない。「目が悪いからと逃げ腰になってきた自分を変えよう」と誓った。ボールも相手も位置を察知するのは音や気配が頼りだ。次第に聴覚が研ぎ澄まされ、生活の支えにもなった。

 だが、小宮選手とともに、初めて出場した2008年の北京・パラリンピックは出場8カ国中7位に終わる。「ミスしたらと、不安になる自分の弱さに負けた」と浦田さんは振り返る。帰国の飛行機で涙が止まらなかった。

 4年後を目指し、前向きな思考に切り替えた。「今日のノルマは腹筋100回。いや、ノルマでなく目標だ」。積極的な言葉を心がけた。4年間、筋力トレーニングは1日も休まなかった。

 そして小宮選手と再び出場した12年のロンドン・パラリンピック。強敵・中国との対戦では、得点王の選手に渡らないよう、攻撃時に徹底してボールを左右に散らし、激戦を制した。パラリンピックで初の団体競技での日本の金メダル。「支えてくれたみんな、ありがとう」。思いがあふれた。

 浦田さんはいま、福岡市でマッサージ師として働きながら、2年後の東京パラリンピックに向けて練習を重ねる。「見えない、を力に変えた」。そんな自信を糧にして。

情報編 治療法半ば、生活を工夫

 網膜色素変性症は、眼球の内部にある「視細胞」という光を感じる細胞が傷つき、次第に視力が失われる難病だ。遺伝子の異常によって起こる。専門医らが2016年にまとめた「網膜色素変性診療ガイドライン」によれば、4千~8千人に1人の割合で発症し、国内の患者数は推定2万3千人。成人後に視覚障害となる原因としては、緑内障、糖尿病網膜症に次いで3位だ。

 ただ、診療ガイドラインを作成した代表者の山本修一・千葉大病院長(60)はこう強調する。「症状の進み方は人によってさまざまで、だれもが即座に失明するわけではありません。視野が極端に狭くはなっても、中心部の視力はかなり長く残ります」

 治療法の研究開発が進みつつあり、山本さんによると、①遺伝子治療②神経保護③網膜再生・人工網膜の三つがある。遺伝子治療では、病気の原因となる異常な遺伝子の代わりに、正常な遺伝子を外から取り入れる方法をさぐる。神経治療は視細胞が自ら死ぬ「細胞死」を起こすのを抑える。網膜再生や人工網膜では、iPS細胞などの活用も期待されている。

写真・図版

 ただ、まだ確立した治療法はない。病院によってはアダプチノールという薬を出すケースもあるが、「半世紀以上も前に保険適用された古い薬で、現在の基準では効果があるとは言えない」と山本さんは指摘する。

 患者にはつらい現実だが、山本さんは「残された機能をいかに生かして、よりよい生活を工夫するかが重要になる」と話す。ロービジョンケアという考え方だ。

 視覚障害用の色々なグッズを活用したり、福祉制度を利用したりと、さまざまな方法を組み合わせて生活や就労を支える。ケアに取り組んでいる病院名は、日本眼科医会や日本ロービジョン学会のホームページに一覧表がある。

 最近は、パソコンや携帯電話が発達し、音声で電子メールの内容などを読み上げたり入力したりできる。病院によっては、こうした機器の使い方も指導している。

 患者組織に入って情報交換することも有効だという。日本網膜色素変性症協会は、多くの都道府県に組織があり、患者同士が交流をはかっている。

 

 ◇ご意見・体験は、氏名と連絡先を明記のうえ、iryo-k@asahi.comメールするへお寄せください。

<アピタル:患者を生きる・スポーツ>

http://www.asahi.com/apital/special/ikiru/(伊藤隆太郎)