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 私事から書き出して大変申し訳ないのですが、私は今のように認知症が専門の精神科医になる前には、父と同じ道を選んで歯科医になりました。でも、その当時から今の仕事につながる「摂食・嚥下(えんげ)」に関心を持ちました。ものを食べる摂食行為と、それに続くのみ下しについて関心があり、「寝たきりの人や認知症などのために歯科医院に来られない人の所へ、こちらから訪問して診療できないかな」と考えていたからです。

 今回は歯の咬(か)み合わせや口の中の状態を清潔に保つことが、いかに認知症の人の健康を守ることに大切なのかを考えてみましょう。

歯科医として

 35年前、現在のようにスーツケース程度の大きさの訪問歯科診療の機材はまだなくて、もし、そういうことをするなら、大きなトラックの荷台に歯科診療台を積み込んで診療するしかないと考えられていました。

 普段は私がやろうとすることに多くは口出ししない父(歯科医)が、「い、一生、それはちょっとむちゃなことかも…」と言っていたことを思い出します。父自身が足踏み式のドリル(歯を削るエアタービンではなく、何と脚でこぐドリル!)をもって、かつて訪問診療をしていたのに。それほど当時は採算性がなかったのでしょう。

 その結果、私は歯科医として医学部に入学して認知症の専門医になることになるのですから、未来はわからないものですね。

歯科と関係する他の領域

 歯科領域で大切なことは、上下の歯の咬み合わせ(咬合 こうごう)、ケアにおける誤嚥(ごえん)の問題、そして慢性歯周疾患(歯茎の腫れやうみなど)によって、口以外の体の部分に炎症や不都合が起きることなど、多くの事が私たちの健康を左右します。

 「歯科と言えば歯を削って痛みを止めて…」と思うのが一般的ですが、全身の健康状態や、心理的な原因から口の領域に変化が起きる「歯科心身医学」まで、実に幅広く人の心身に影響を出します。

 そのことを改めて知ったのは、実は私が歯科医となり精神医学を学んで今のように認知症の専門医になった後でした。認知症にとって、これほど歯科、口腔(こうくう:口の領域のこと)関係が影響するのかと改めて驚きました。

 今では地域包括ケアの要として歯科医師が欠かせない存在になっていて、私自身も一度は遠ざかった歯科医の世界と、今の専門領域で協力することができ、とてもうれしく思っています。

咬み合わせ(咬合)のこと

 私は認知症専門の精神科医としてはいくつか論文を書いてきましたが、歯科医師としては業績がありません。しかし診療所のデータには結構、咬み合わせが悪くなった人の認知症が悪化する経過が記録されていますので、そのカルテから例を挙げてみましょう。

 上下の歯の咬み合わせが10本までの人(50人)と、20本までの人(50人)の認知症との関係について時間の経過とともに追いました。

 厳密な意味での科学データとまではいきませんが、結果として上下の歯の咬み合わせが残っているほうが、少ない人と比べて認知症の進行が遅くなるという結果が出ました。もちろん、自分の歯がそろっていて咬み合わせができることが理想ですが、たとえ自分の歯でなくとも、入れ歯(義歯)やブリッジ、インプラントなど、咬み合わせを回復することで、効果が出るという印象を私は持っています。

 このようなことがわかると、歯科はとても大切なリハビリテーションの重要ポイントであることが再認識できるでしょう。時に介護の世界では入居している人の義歯(入れ歯)が合わなくなっていて、「もう、意味がないから食事の時にはいつも入れ歯を外して食べてもらっています」という意見を介護職から聞くことがあります。合わない義歯を無理につけるのは本人にも良くないことです。できれば在宅療養支援歯科診療所という訪問診療をしてくれる歯科医に相談して、できる限り義歯による咬み合わせの回復(入れ歯にすることで咬み合わせができるようになること)を目指す努力も求められます。

 次回は同じ歯科領域でものみ込み(嚥下・えんげ)の話と、口の領域に出やすい症状について述べたいと思います。

<アピタル:認知症と生きるには・コラム>

http://www.asahi.com/apital/column/ninchisyou/(アピタル・松本一生)

アピタル・松本一生

アピタル・松本一生(まつもと・いっしょう) 精神科医

松本診療所(ものわすれクリニック)院長、大阪市立大大学院客員教授。1956年大阪市生まれ。83年大阪歯科大卒。90年関西医科大卒。専門は老年精神医学、家族や支援職の心のケア。大阪市でカウンセリング中心の認知症診療にあたる。著書に「認知症ケアのストレス対処法」(中央法規出版)など