私が歯科医になったのが35年前、その後、医師になって認知症専門の精神科医として26年が過ぎました。医師になることで一度は遠ざかったかに見えた歯科の世界ですが、認知症のケアを通じて、ふたたび両者が大きくかかわっていることがわかりました。
今回、書くのは「誤嚥性(ごえんせい)肺炎」。ものをのみ込むときに間違って気管のほうに吸い込んでしまい、それから発生する肺炎のことを指しますが、この肺炎こそ認知症の人が終末期に亡くなる原因の大きな要因になっています。口腔(こうくう)ケアを通して誤嚥性肺炎が起きないようにすることが、実は重症化した認知症の人の命を左右するほど大切なのだとわかっています。
ひとが目の前の食べ物を見ると、脳が反応して食物を口に運び、咬(かみ)砕いてのみ込むことで、栄養分を摂取します。その一連のプロセスを「摂食嚥下(せっしょくえんげ)」と呼びますが、脳が変化してくると、まず、食べ物の認識ができなくなり、口の中でかみ砕いてひとつの塊にした食べ物をのどの奥からのみ込む際に、細かなことができなくなります。のみ込む際には気管に、ものが入らないようにふたをして、食道に食べ物が流れていくのが嚥下なのです。
拡大するイラスト・福井典子
ところが脳が認知症によって変化してくると、この行為が協調をもってできなくなり、食べたものの一部が気管に入ってむせることが多くなります。空気の通りみちである気管は、本来、口の中の雑菌がない場所ですが、それを超えて気管の奥から肺にまで誤嚥したものが入ると、誤嚥性肺炎が起きます。
グラフ1に示したように認知症の介護が始まってからの年月が増すごとに、誤嚥性肺炎になる可能性は上がっていきます。
この数値は決してこの割合で必ず誤嚥性肺炎になるというデータではなく、私の診療所のカルテに残る記録から、認知症ケアが15年経過すると、ほぼ9割の人に誤嚥性肺炎の可能性が出てくることを指しています。
実際の経過では、こういった可能性を考えて、歯科医師や歯科衛生士のもと、食べかすが残らないように歯ブラシなどでこまめに清掃したり、咀嚼(そしゃく)をできるだけするようにして口の筋肉を衰えないようにしたりする口腔(こうくう)ケアをすれば、実際に誤嚥性肺炎を起こす人は10%程度にとどまります。
またグラフ2に示したように、口腔ケアを「するかしないか」の差で誤嚥性肺炎の発生は明らかに減らすことが期待できます。私の診療所の患者から、ケアをした人と、しなかった人の各100人を比較した結果、こうした傾向がありました。
その際に注意すべきことが、「誤嚥は食事の時だけではない」という認識を持つことです。私の経験でも誤嚥性肺炎で最も気をつけなければならないのは、食事の時と並んで食事以外の時間に、いつの間にか気管に垂れ込んでいく唾液(だえき)に、口の中にいつもある雑菌が混ざっていて、それが引き起こす誤嚥性肺炎なのです。それゆえ食事の後だけではなく、一定の間隔で口腔ケアをすれば誤嚥性肺炎の発生を減らすことができます。
普段から介護施設の看護師や介護職から「口腔ケアは歯科医師や歯科衛生士のように完璧にできず、私たちはその方面のプロではないから、やっても無駄なのでしょうか」と聞かれることがあります。決してそのようなことはありません。歯科医師や歯科衛生士ができればそれに越したことはありませんが、先のデータは介護職や家族がやっても口腔ケアには誤嚥性肺炎を防ぐ効果があることを示しています。口腔ケアの最大の目的は歯の一本一本を磨き上げることよりも、口の中の雑菌のコントロールにあります。あきらめずに取り組んでいくことが認知症の人の予後(その先の病状)を左右する、大きなテーマです。
心身症による歯科領域の問題については、何も認知症に限ったことではなく、本来ならこの項目だけで独立したコラムを書かなければならないほどですが、認知症の人の場合にも、初期にこういった症状が目立つことがあります。
心身症は本人が気づいていないのに、こころのストレスを原因として体が変化してしまうことを言います。たとえば高血圧の原因が、本人も気づかないところで受けている過剰なストレスである場合などを指します。
「え、認知症はものわすれの病気だから、そんなストレスなど感じないんじゃないの?」という人は、このコラムの読者さんにはおられないでしょう。でも、地域の人の中にはまだ、理解が進んでいない人も多くいます。そんな時、認知症のことを自分で気づき、思い悩む人や、心身症が初期段階で目立つ人もいることを、ぜひ、伝えてあげてください。
いくら歯科で検査しても悪いところが見つからないのにもかかわらず、その人が訴える歯茎の痛みなど、訴えてくるいろいろな症状があります。これらを早く見つけて歯科、口腔外科、耳鼻科の病気がないことを確かめ、それらの科目の病気を除外した上で、歯科心身症を早く見つけることが大切です。このような症状はまた、認知症の初期に起きやすいことも知っておきましょう。
歯科領域の心身症が出やすい期間が何年かあって、その後、認知症に移行していく人も少なくありません。
口の領域からいろいろなことがわかり、病気に対する早い段階からの対応ができるようになるものです。
<アピタル:認知症と生きるには・コラム>
松本診療所(ものわすれクリニック)院長、大阪市立大大学院客員教授。1956年大阪市生まれ。83年大阪歯科大卒。90年関西医科大卒。専門は老年精神医学、家族や支援職の心のケア。大阪市でカウンセリング中心の認知症診療にあたる。著書に「認知症ケアのストレス対処法」(中央法規出版)など
速報・新着ニュース
あわせて読みたい
PR注目情報
「SKE須田さんと金属アレルギー」などをまとめました。一気に読みたい方はこちらから。
高齢者の医療や介護、健康にフォーカスした専門記事です。
インフルエンザの対処法や注目の新薬「ゾフルーザ」をめぐる最新情報をまとめました。