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【まとめて読む】患者を生きる・歯のかみ合わせ

 かつて陸上100メートル障害で日本一になった寺田明日香さん(28)は引退後、出産を経て2016年に7人制ラグビーに転向しました。「東京五輪でプレーする姿を娘に見せたい」という思いが決断を後押ししました。歯のかみ合わせや骨折した足の治療を続けながら、新しい世界で、再びトップレベルを目指しています。

陸上を引退、転向の誘い

 2017年5月、秋田市のあきぎんスタジアム。7人制女子ラグビーの試合に出場した、千葉ペガサスの寺田明日香(てらだあすか)さん(28)は、チームメートからパスを受けると力いっぱい走り、後半6分、トライを決めた。

 思うように食事ができない原因になった歯の治療や、歯を守るためのマウスガードの製作を経て迎えた公式デビュー戦だった。チームメートが駆け寄って来て喜んでくれたのがうれしかった。

 寺田さんは、もとは陸上の100メートル障害の選手だ。全国高校総合体育大会(インターハイ)と、日本選手権でそれぞれ3連覇を果たし、09年にベルリンであった世界陸上選手権にも出場した。

 しかし、けがや不調が続いて12年のロンドン五輪の出場を逃した。13年6月の日本選手権は予選を通過できなかった。誰にも相談せずに引退を決めた。

 その年の9月、7人制女子ラグビーチーム、アルカスクイーン熊谷の桑井亜乃(くわいあの)選手(28)に会った。寺田さんと同じ北海道出身の元陸上選手で、仲が良かった。

 「明日香、一緒にラグビーをやらない?」

 桑井さんにそう誘われるのは2度目だった。1度目、引退の少し前に聞かれた時は「亜乃と一緒ならやってみようかな」と答えた。2度目のこの時は、「無理だよ。本当に無理だよ」という言葉が口から出た。涙があふれた。

 当時、寺田さんと交際していた佐藤峻一(さとうしゅんいち)さん(35)もその場にいた。1人で引退を決断した彼女が人前で泣く姿に驚いた。ラグビーへの転向を勧めたかったが、あきらめた。

 桑井さんの他にもラグビーへの転向を勧める人はいた。現役時代、100メートルを11秒71で走った能力が評価されていた。

 けれど、寺田さんの心は競技から離れていた。「やっと陸上をやめられたのになぜアスリートに戻らなきゃいけないの。体が思うように動かないし、もう人に評価されて生きたくない」

 14年、佐藤さんと結婚し、夏には長女の果緒(かお)ちゃん(3)が誕生した。2年後、ラグビーの世界に足を踏み入れるとは思いもしなかった。

再始動のころ、口内に異変

 陸上100メートル障害で日本選手権3連覇を果たし、2013年に引退した寺田明日香さん(28)は、友人に7人制ラグビーへの転向を誘われたが断った。

 夫と14年に生まれた長女の3人で、新しい生活を始めた。早稲田大の人間科学部(通信教育課程)で心理学や幼児体育なども学んだ。スポーツ専門情報サイトの編集部でインターンも経験した。

 陸上引退後、何人もの友人らにラグビーへの転向を勧められたが、当時は選手に戻りたいとは思わなかった。

 だが引退から3年。リオ五輪で7人制ラグビーの女子日本代表チームが10位に終わったのを見て、気持ちが変わり始めた。女子ラグビーチームの千葉ペガサスの関係者に誘われ、練習を見に行った。

 「足の速さは身につけようと思って身につけられるものじゃない。最初はルールは分からなくて当たり前だから始めてみたら?」。スタッフの優しい口調に、「やってみようかな」と思った。

 20年東京五輪を夫の佐藤峻一さん(35)と長女果緒ちゃん(3)の3人で見たいと思っていた。それが「自分がプレーする姿を見せたい」という気持ちに変った。ラグビーへの挑戦に踏み出した。大学の卒業論文を執筆しながら練習に参加するようになった。

 12月には日本ラグビーフットボール協会のトライアウトに合格し、日本代表の練習生になった。ラグビーを始める前、身長168センチ、47キロだった体重を60キロまで増やすことになった。ご飯や麺類などの炭水化物を中心にたくさん食べるように努めた。

 ただ、この頃から左上の親知らず(第3大臼歯)が出てきて、下あごの歯茎やほおの内側に当たり、痛みを感じるようになった。「ラグビーを始めてタックルなどで顔面を激しくぶつけるようになったせいかな」と思った。

 うまくかめず、ひどい口内炎もできた。体重を増やしたいのに思うように食べられないのが、もどかしかった。

 17年1月、東京医科歯科大病院(東京都文京区)のスポーツ歯科外来を受診した。日本代表の合宿で約3カ月間、東京都内の自宅にほとんど帰れない生活が始まったばかりだった。

親知らず抜いて、矯正も

 7人制女子ラグビーに転向した寺田明日香さん(28)は体重を増やしたかったが、左上の親知らずのせいで思うように食べることができなかった。昨年1月、東京医科歯科大病院(東京都文京区)のスポーツ歯科外来を受診した。

 「親知らずがぶつかっている気がします」。寺田さんは診察を担当した中禮宏(ちゅうれいひろし)助教(46)に、そう伝えた。

 X線検査により、歯茎の中に埋まっていた左上の親知らず(第3大臼歯)が下の歯茎にあたり、痛みが出ていることが確認できた。中禮さんが左上の親知らずを1、2ミリ削ると、下の歯茎にぶつからなくなった。しかし、しばらくすると、親知らずがまた出てきた。

 1月下旬、この親知らずを抜いてもらうと、歯がほおの内側に当たることはなくなり、口内炎にも悩まなくなった。寺田さんは「奥歯でかみしめられる」と実感した。筋力トレーニングや練習の際、踏ん張りやすくなったのが、うれしかった。

 右上の親知らずも、左上と同じように歯茎から出てきていた。痛みはなかったが、後日抜いてもらった。

 通院するうち、歯並びがあまり良くないことが中禮さんとの間で話題になった。陸上選手時代も、歯科医に矯正治療を勧められたことが何度もあった。歯並びを適切にすることでかみ合わせを良くして、競技のパフォーマンス向上につなげる考え方があった。ただ、当時はそこまで気にしなかった。

 「ちょうどいい機会かもしれない」。4月、同病院の矯正歯科外来を受診した。

 診察した松本芳郎(まつもとよしろう)講師(53)は、歯がでこぼこに生えている「叢生(そうせい)」と、上下の前歯が外側に傾く「上下顎前突」と判断した。いずれも、かみ合わせが正常でない「不正咬合(こうごう)」の一つ。寺田さんは通常よりもそれぞれの歯が大きいことが原因と考えられた。

 限られたあごの空間に歯を適切におさめ、前歯を後ろに下げるため、前から4番目の歯(第1小臼歯)を上下左右で計4本抜くことになった。この歯は矯正治療で抜歯が必要な場合、抜くことが多い。残っていた左右の下の親知らず2本も抜くことが決まった。

東京五輪に出る母見せる

 7人制女子ラグビーに陸上から転向した寺田明日香さん(28)は、東京医科歯科大病院(東京都文京区)での親知らずの抜歯をきっかけに歯の矯正治療も始めた。

 2017年1月から8月にかけて親知らず4本と、矯正治療のために第1小臼歯4本を抜いた。

 北海道に帰省中、抜歯後の空洞を覆っていた血の塊がはがれて骨が露出した。2日後に帰京するまで耐えられないほどの激痛で急きょ、北海道で歯科医院を受診したこともあった。

 治療の進行に合わせて、マウスガードも作り直した。スポーツ選手が他の選手やボールとの接触、衝突などによって歯や歯茎、口の中が傷つくのを防ぐ目的で歯にはめるものだ。一般的にやわらかい素材で出来ていて、1~2年は使えるが、矯正装置を着けて歯の位置を動かしている寺田さんは、数カ月ごとに作り直している。

 歯を動かす治療が終わるまでは2~4年かかると担当の松本芳郎講師(53)から説明された。治療を始めて約1年。「出ていた前歯が少し内側に入り、接触プレーで歯が当たりにくくなった」と感じる。痛みを感じる時もあるが、歯がきれいに並ぶ日が楽しみだ。

 一方、17年5月に公式戦で相手チームの選手と接触、右くるぶしの骨が折れた。今年7月、骨を固定するプレートやボルトを取り除く手術を受けた。再びリハビリをして、8月の本格復帰を目指す。

 ラグビー漬けの毎日が始まれば、長女の果緒ちゃん(3)と過ごす時間は少なくなるが、娘の存在が支えになっている。

 「ママ、今日は(ラグビーの)練習だよ」。昨年のある日、寺田さんは保育園に通い始めたばかりの果緒ちゃんを送る途中、こう話しかけた。すると「ママの仕事は練習。果緒の仕事は保育園」と返ってきた。胸が熱くなった。

 「東京五輪に出場した姿を娘に見せる」。それが夫婦共通の願いだ。ある競技でトップレベルだった選手が別の競技に転向しても活躍できれば、一つの競技に打ち込む風潮が根強い日本のスポーツ文化も変わっていくのではないか。

 同時に、出産を経験し、育児中の女性アスリートの活躍が当たり前になってほしいとも思っている。

マウスガードで外傷予防

 東京医科歯科大病院の矯正歯科外来、松本芳郎講師(53)によると、前歯がでこぼこに生えたり外側に傾いたりしている場合、歯の矯正治療によってかみ合わせがよくなると、一般的に次のような効果が期待できる。「前歯でもしっかりとかめる」「転倒時などにけがをしにくくなる」「見た目を気にしなくて済む」「口呼吸や歯周病の間接的な予防」などだ。

 松本さんは「歯のかみ合わせが良くなると、競技のパフォーマンスが向上する人もいる」と話す一方、科学的には解明されていないと説明する。連載に登場した寺田明日香さん(28)のように、陸上選手時代にかみ合わせに問題があっても、トップレベルで活躍した選手は少なくないからだ。

 ただ、適切な矯正治療によって本人が効果を実感できれば、自信につながり、競技にプラスに働く可能性は十分あるという。

写真・図版

 そして、歯を守るうえで重要なのがマウスガードだ。国際歯科連盟(本部・スイス)は2008年、あらゆるスポーツでマウスガードの装着を推奨する声明を出した。声明には、複数の研究論文を解析し、マウスガードを装着しない場合は、装着する場合に比べて外傷のリスクが1・6~1・9倍高いとする結果も盛り込まれた。

 同病院スポーツ歯科外来の上野俊明(うえのとしあき)准教授(51)によると、マウスガードを装着する最大の目的は、接触プレーや転倒時の歯や口の中のけがの予防だ。くいしばる習慣がある人は、歯やあごの障害も防げるという。

 国内ではボクシングやアメリカンフットボール、ラグビー(一部)などで、選手の装着がルール化されている。

 マウスガードには、歯科で本人の歯型をとって作るカスタムメイド(約1万円~)と、スポーツ用品店やインターネットで販売されている既製品をもとに本人の口の中で形を合わせて作るタイプ(約1千円~)がある。

 上野さんは「既製品を使う場合に比べ、カスタムメイドは自分の口にぴったりと合い、かみ合わせもしっかりする。息苦しさや話しにくさもない。国際歯科連盟も推奨しているカスタムメイドのマウスガードでしっかりとけがを予防してほしい」と話す。

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<アピタル:患者を生きる・スポーツ>

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(南宏美)