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 もう25年近く前のことですが、内科医であった母とともに地域で在宅医療による認知症の人のみとりをしていました。現在のような在宅療養支援診療所が訪問診療をする制度ができる前で、当時は往診をする医療機関が少なかったこともあり、私たちはできるだけ「家で最期を迎えたい」と希望する人の人生の最終段階を、たとえ何年かかっても見届けることにしました。診療所のカルテにはこれまで在宅で臨終まで診療を続けた273人の記録が残っています。一つひとつが、人生の終末期でもあり、総仕上げでもあります。

がんとは違う終末期

 今はがんなどで医療的に余命が少なくなった人が安らかに苦痛なく人生を全うするための終末期医療や、がんの痛みなどから解放する緩和ケアという言葉が使われますが、当時は終着駅を意味するターミナルケアという用語が使われていました。

 しかしよく考えてみると認知症の場合は、がんの終末期医療などとは異なります。何年もその人の人生の最終段階の総仕上げのような時間を、たとえそれが10年かかっても見続けるわけです。

 短期間の終末期医療ではなく、人生をともに歩きながらその人の病気とも付き合っていくのだと感じたのは在宅での見送りを始めてから10年ほどたったころだったと思います。限られた期間に集中的な「みとり」をするのではなく、ゆっくりとした時間が大切に感じられるようになりました。

 認知症の人のなかには、中核症状としては重度であっても誤嚥性(ごえんせい)肺炎やけいれん発作が出ることなく長い年月を安定して過ごす人も多く、必ずしも一般的な医療のように重度=終末期にはならない人も少なくありません。そのような人とは長くつきあって、人生をともに歩んでいくのでしょう。

ある女性の意思

 今年2月にインフルエンザから肺炎になり見送った松川いとさんという女性(仮名、96歳)も70歳の時に血管性認知症の診断を受け、大学病院から私が託されて20年以上の間、通院してこられる彼女を担当しました。インフルエンザで急激に体調を崩すまで、人生の最終段階をゆっくりと生き抜いた人でした。

 彼女はこの世代の人としては極めて進んだ考えの持ち主で、私が担当させていただいた1992年には自らの意思をもってつぎのように意思表示しました。

 「この医療は受けたいが、たとえ入院してもこの程度までの治療にしてほしい」と、今でいうインフォームド・コンセントにもとづくリビングウィルの書面を自作して私に渡してこられました。

 今でこそ当たり前になったリビングウィル(いざというときに受ける医療や処置をどこまで希望するかの意思表示)ですが、当時はこういったものを見せたとたんに病院管理医師から「うちでは何もすることがないから、退院して欲しい」と言われることも珍しくありませんでした。

 認知症と言う病気は誤解されることが多く、一度、その病名がついただけで「何も記憶できない」と過剰に理解されることや、自分の意思があっても「何一つわかっていない」と判断力が全くないように誤解されるとも少なくありません。

 最近では特に自動車の事故が増えていることもあり、認知症の人が高速道路を逆走したという報道などを新聞で目にすると、自分の意思では何も考えることができない人であるといった解釈がされてしまいがちですが、そうではない人もたくさんいて、とても病気の幅が広いことに驚かされます。

 たとえば認知症の人には軽い意識障害を伴う「せん妄」の状態が合併している人もいますが、意識のレベル変化がない限りは、一般の人が考えるほど、「ぼんやり」として行動する人ばかりではありません。いま自分の走っているところが突然わからなくなり、どうしようと思う余りに混乱している人は実は多いのです。

 松川さんは夫を見送った時の後悔から、自分の場合は「いくつかのことを拒否する」と常に言っていました。夫も何度かせん妄が起きて行方不明になったことがあり、周囲の人びとに迷惑をかけたことを後悔していたからでした。

 ・私、延命治療は受けません。「胃ろう」や中心静脈栄養、人工呼吸器は拒否します。

 ・医療の力で「生き延びさせられてしまう」のは嫌です。

 ・娘にも家族にも私の意見を聞いてほしいと思います。決して私には考える力がないと決めつけて家族が勝手に決めないでください。

 とてもしっかりとした意見を持っていました。私もその意見を尊重するように心がけましたが、その一方で彼女の認知症のレベルによって、本当に判断力が低下した時には娘さんと連携することも伝えて体制を組みました。

医学や家族の判断

 本人の意思がどうであっても、医学的なメリットやデメリットがあり、医療として最善とは限らない場合もあります。また、ずっと付き添うことになるご家族の思いなどもかかわってきます。

 みなさんは知っていますか。「胃ろう」とは口からものが食べられなくなった場合に、おなかに穴をあけて胃に直接栄養剤を入れることです。口から食べる食事に代わる栄養補給ができます。

 「胃ろう」については多くの意見がありました。25年ほど前までは医療側も今ほどは熟慮せずに「胃ろう」にしていたかもしれません。私は歯科医でもありますので、「できれば口から食べられること」を大切にしてきました。

 しかも「胃ろう」を作ったとしても、栄養剤の逆流には注意しなければなりません。口腔(こうくう)ケアも怠れば口からものを食べない分、口の中の雑菌が増えることにも注意が必要です。

 中心静脈栄養は点滴の一種ですが、栄養分の多い高濃度の液を首や足の付け根から直接入れる方法です。点滴でイメージされる腕の内側に入れられないのは、液が高濃度であるためです。

 これも私の経験では何年もこれだけで栄養を保つことができた人もいますが、それだけ効果がある反面、食べる機会がなくなるなど生活の質自体は低下することについては、本人や家族の理解と同意(インフォームド・コンセント)が必要です。

 人工呼吸器は機械によって呼吸ができなくなった人の肺に空気を送り込み、命が保たれますが、これも一度装置をつけると、たとえ自分の意識が伴わなくても長期間、命だけは保つことができるため、装置をつけるか否かは本人もしくは家族の同意を得る必要があります。

 医師は人の命を守るために訓練を受けて現場に立ちます。私たちの時代には「目の前にある命を守ること」を最優先課題として習いました。でも認知症で本人の意見が聞けない時には、判断が難しくなります。

 状況によって「NO!」と言われても必要な医療をおこなってきた自分もいます。患者さんの意思を尊重しながら自分の判断も伝える努力を怠らない努力を続け、医療や介護を受ける人の気持ちに沿った対応をすることが、人権を守ることになるからです。

 次回は本人と家族の思いの違いについて考えます。

<アピタル:認知症と生きるには・コラム>

http://www.asahi.com/apital/column/ninchisyou/

(アピタル・松本一生)

アピタル・松本一生

アピタル・松本一生(まつもと・いっしょう) 精神科医

松本診療所(ものわすれクリニック)院長、大阪市立大大学院客員教授。1956年大阪市生まれ。83年大阪歯科大卒。90年関西医科大卒。専門は老年精神医学、家族や支援職の心のケア。大阪市でカウンセリング中心の認知症診療にあたる。著書に「認知症ケアのストレス対処法」(中央法規出版)など