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 先日、電車に乗っていた時の出来事です。通勤ラッシュの時間を過ぎているものの座席は埋まり、立っている人もいました。

 突然向かいの席に座っていた老婦人が立ち上がりました。

 「もう降りなくちゃ」

 「降りるのは〇〇駅。まだよ」

 私の隣に座っていた女性が答えます。

 「降りなくちゃ」

 「まだ先よ」

 そんなやりとりが繰り返されている間に、老婦人が立ち上がって空いた席に、別の人が座ってしまいました。

 「ほら、席がなくなっちゃったじゃない。ちゃんと座っていないからよ!」

 女性に言われて、その老婦人も自分の座る席がないことに気づいたようです。こちらの方にやってきて、私の隣に座っていたその女性を、一発叩(たた)きました。叩かれた女性は「もう、やっていられないわ」と言うように大きくため息をついてそのまま座っています。

 

 察するところ、老婦人には認知症があり、一緒にいた女性は同居の家族でしょう。

 認知症の人が怒りっぽくなってしまうのは、状況が把握できない、その先の予測ができない、判断ができない、適応することが困難、などのように認知機能が低下することに由来します。また、それを家族に指摘されたりすると、恥ずかしい、情けない、という気持ちになったり、できないことを隠すために、さらに怒りが増してしまったりする場合もあります。あるいは、説明されることでさらに頭のなかが混乱してしまうのです。

 そして自分の感情を抑制できなくなるため、怒りをそのまま表出し、また、言葉でうまく説明できないが故に、手を上げてしまうこともあります。

 この老婦人は、日ごろは電車で出かける機会はあまりない様子で、場所や状況の認識が難しく混乱していたのかもしれません。

 

 付き添う家族も大変です。

 認知症だとわかっていても、叩かれて良い気はしません。とはいえ、介助者が感情的に声を荒らげたり叩きかえしたりするわけにはいきません。人目があるということは、不適切な行動をしないための抑止となるかもしれません。しかし人目を気にして堪えることは、大きな負荷となっていると考えられます。

 

 私は、老婦人が杖をつきながら電車に揺られて不安定な様子を見かねて「降りる駅はまだ先のようですから、ここに座りますか」と声をかけました。当の老婦人には席を譲ろうといていることをわかってもらえなかったようで「あら、あなたはどちらまで行くの?」と、私に話しかけてきました。私が「○○駅までですよ」と答えると、「あらそう。遠いわね。ところでどちらまで行くの?」と同じ質問。

 「どこで降りるの?」「〇〇駅です」「どこまで行くの?」「〇〇駅です」という繰り返し。

 隣の女性から「すみませんね。でも自分で立ったのだから、お気遣いなく」とこちらが気遣われ、席を譲るタイミングを失うばかりか、老婦人の質問攻めに閉口してしまいました。もしこれが家のなかに2人だけだったら、本当に疲弊してしまうだろうと思います。

 そうこうしていると、女性の反対隣に座っていたサラリーマン風の男性が無言でサッと別の席に移り、その老婦人は再び座ることができました。

 

 ところで、最近大きな自然災害が続きました。突然自宅や周囲の状況が一変し、避難を余儀なくされた方々は大変な思いをされたことでしょう。認知症をもつ人は、状況を認識することが難しく、普段と違う感覚に対しては敏感で不安が増して落ち着かなくなることがあります。

 本人だけでなく対応する家族の負担も大きくなりますし、避難所など多くの人がいる場所では、気兼ねすることもあるでしょう。介護の状況に応じた事前の備えも大切ですが、いざと言うときに家族が穏やかに本人に関われるためには、周囲の見守りやさりげない気遣いも大切だと思います。

 

 今回私はお節介をしようとして失敗しましたが、無言で席を立った男性の振る舞いにこんな優しさの形もあると学んだのでした。

 

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◆編集部から

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アピタル・田辺有理子

アピタル・田辺有理子(たなべ・ゆりこ) 精神看護専門看護師・保健師・精神保健福祉士

横浜市立大学医学部看護学科講師。大学病院勤務を経て2006年から看護基礎教育に携わる。アンガーマネジメントファシリテーターTMとして、医療・介護・福祉のイライラに対処するためのヒントを紹介する。著書に『イライラとうまく付き合う介護職になる!アンガーマネジメントのすすめ』(中央法規出版)がある。