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 「二十年前に父が先生にお世話になった上田です。母が脳梗塞(こうそく)で入院中なのですが、退院して先生に診てもらいたいと言っています。お願いできませんか」。そんな話があった。

 その患者さんのことは、はっきり覚えている。ぼくが高松から四万十に移ってすぐの時だった。高知市の総合病院でがんの化学療法をしても効果がないので、在宅療養を希望して四万十に帰ってきた。

 ぼくの診療所の近くに住み、在宅での看取りの初めての患者さんになった。思えば、ここからぼくの四万十での在宅医療が始まったのだ。

 控え目な態度で介護する妻の姿が印象的だった。その妻の今の病状はかなり厳しく、食事が飲み込めずに連日の点滴を続けている段階で、退院を希望していた。

 「主治医の先生からはリハビリテーションの病院に転院を勧められているが、家に連れて帰りたい。母は小笠原先生に最期はみてもらいたいとずっと言っています。胃ろうを造ることを勧められても、母は管を入れるのは前から嫌なのです。口から何とか食べさせたいのです」

 気持ちのあふれた言葉が、娘たちから続く。結局家族は気持ちを押し通して、かなり強引な退院になった。

 その翌日、家を訪ねた。往診車を庭で降りて、玄関からベッドまで歩くあいだに、当時のことが浮かんできた。患者さんの夫は地元では著名な画家で、ぼくは絵を見せられては感想を聞かれた。絵心のないぼくが絵の話をよくした。その介護を続けた妻が、今べッドで寝ている。ぼくと同じ白髪、二十年の歳月が流れているのだ。

 「お久しぶりです。小笠原です」とベッドをのぞき込むと、患者さんが大きく笑った。

 二度目の訪問の時、食事が進み表情も柔らかくなった。家族も家に連れて帰ってよかったと喜んでいた。

 「これ、先生。持って帰ってください」

 ぼくの目の前に一升瓶があらわれた。最初はてっきり日本酒だと思った。手に取ってラベルをみたら、これがなんとリンゴジュース。

 「先生が弘前大学の出身だから、懐かしいと思って取り寄せたんです」

 娘の言葉にうなずいた。弘前市の住所が生産地として書かれてあった。二十年前に弘前の話もいっぱいしたのだろう。

 退院して三週間が過ぎた。ぼくの言う、「三日、三週間、三カ月が一区切り」の節目を無事超えた。家族の気持ちの強さが患者さんを支えてきた。そして二十年の空白があっても、なじみの関係は何にもかえがたい。

 「アトリエがありましたよねえ」「あの木の茂った向こうです」と、二十年前を振り返りながらの訪問が続く。

 「先生、かわらん。若い」と、患者さんは家族に言ったそうだ。ぼくの四万十の二十年を思いつつ、本当にうれしい気持ちになった。

 

<アピタル:診療所の窓辺から>

http://www.asahi.com/apital/column/shimanto/(アピタル・小笠原望)

アピタル・小笠原望

アピタル・小笠原望(おがさわら・のぞみ) 大野内科医師

1951年高知県土佐市生まれ。76年弘前大学医学部卒。高松赤十字病院などを経て97年大野内科(四万十市<旧中村市>)。2000年同院長。18年12月から同医師。在宅医療、神経難病などの分野で活躍中。最新の著書は「診療所の窓辺から」(ナカニシヤ出版)。