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 このコラムでは、仕事でも友人や恋人との関係においても行き詰まりを感じてきた、ADHDに悩む女性・リョウさん(30代前半・独り暮らし)のお話を続けています。

 前回までにリョウさんは5年ぶりに会った実家の母親と大喧嘩をして、さらには彼からのプロポーズに当惑しているうちに彼が怒って帰宅してしまい、何もかもうまくいかない現状に深いため息をついていたところでした。(リョウさんは架空の人物です)

 その後、彼からの連絡はありません。彼も深く傷ついているのです。

 リョウさんは、彼を失うのだけは嫌でした。謝ろうとこちらから何度か電話しましたが、彼は電話に出てくれませんでした。あんなに必死に向き合った心のよりどころであった恋愛が、こんなにもあっけなく終わってしまうのかと、リョウさんは失意の底にいました。

 1カ月がたった頃、彼から連絡がありました。

 「金曜の夜に会いにいく。家にいて欲しい」。それだけのメールでした。リョウさんには、これが別れになるのか、それともまた寄りを戻せるのかわかりませんでした。しかし、あれきりで終わったのかもしれないと思っていたリョウさんにとっては、ほんの少しでも可能性がつながったことがうれしく思えました。

 相変わらず、彼と結婚してやっていけるかどうかには自信はありませんでしたが、とにかく彼を失いたくないことだけはわかっていました。

 なんとか彼の心をつなぎとめたくて、リョウさんは手料理を準備することにしました。

 これが最後の料理になるかもしれない、と思うと、自然と準備に気合が入りました。ホワイトソースから作るドリアにチャレンジしたのです。

 

 当日仕事を終えて帰宅途中にスーパーに寄り、ごちそうの材料を買おうとしましたが、運悪くバターが売り切れていました。

 リョウ 「マーガリンなら売ってるんだけど、どうなのかな。バターじゃないとだめかな」

 迷いつつも、急いで別のスーパーに走りました。

 しかし、別のスーパーに向かう途中に踏切にひっかかり足止めをくらいました。こんな日に限って雨でした。リョウさんは仕事の荷物と買い物袋の重さで指が痛くなりながらも、傘をさして、それでも濡れていく足元の不快感に耐えながら電車を待ちました。

 リョウ 「どうしよう!彼が来るまでもうあと1時間しかないのに!家の片付けだって終わってない!」

 踏切の遮断機がなかなか上がりません。リョウさんは焦りました。

 ようやく遮断機が上がり、かけぬけようとすると、今度は線路のレールのすきまにつまずいて、思い切り転んでしまいました。ぬれた路面に倒れこんでリョウさんは服までびしょぬれになりました。既に買い込んだ食材も一緒に道路に飛び出しました。おまけに、卵は割れてしまいました。

 

写真・図版 

 それでもなんとか別のスーパーにたどり着くと、今度はさすが金曜夕方。レジは長蛇の列です。結局買い物を終えて帰宅すると、もうあと15分で彼が来る時間になってしまったのです。

 それでもリョウさんはあきらめずに、バタバタと仕度を始めました。

 ホワイトソース作りは、リョウさんの予想以上に手間のかかるものでした。焦がさないように、だまにならないように、少しずつ牛乳に小麦粉を加えて混ぜていく。この行程が難しくて、だんご状になってしまいました。リョウさんの思い描いていたような、なめらかなクリーム状のホワイトソースとは大違いでした。

 「ピンポーン」

 玄関のチャイムで我に返ると、台所は買って来た材料や鍋であふれ返り、片づかないままの部屋、それに走って汗だくで帰宅して、化粧も崩れたままの自分に気づきました。

 リョウ 「どうしよう!!彼がきちゃった!」

 玄関に向かうと、彼はリョウさんを黙って抱きしめました。そして、「ごめん。おとなげなくて」と謝ったのです。

 

 彼 「ごめんね。プロポーズって一生に一度のもので。それで、リョウが喜んでくれるとばかり思ってたから、ショックで。つまらない男のプライドですねてただけなんだ。でもそんなプライドよりリョウが大事なんだ」

 リョウさんはほっとして、これまでの不安と今日の焦りと、なんにも準備できなかった自分への不甲斐なさとがごちゃまぜになって、一気に力が抜けました。同時に嗚咽(おえつ)しながら泣き出しました。

 リョウ 「いいの、いいの、ごめんね。こっちがごめんね。今日だって、やっと会えるから一生懸命準備してたのに。全然うまくいかなくて」

 荒れた部屋と、雨と汗と涙でぐしゃぐしゃなリョウさんを見て、彼はこういいました。

 彼 「こういうのも、驚かないよ。大丈夫なのに」

 リョウ 「ばかみたい、ばかみたい。勝手にひとりでハードル上げて、はりきってドリアを作るなんて身の程知らずなことをしようとするから、こんなことになっちゃう。まるで、母親みたい。いつもバタバタして、そのくせ、欲張りで妥協できなくて自分で自分を忙しくしていた母親とそっくり。あんなふうになりたくなかったのに」

 リョウさんは彼に初めて母親への思いを話しました。

 

 リョウ 「今日、もしかしたら最後になるのかもしれないって思ったから、とびきりの料理を作りたかったの。なのに、なにもかもうまくいかなくて」

 彼に話しながら、リョウさんはふときづきました。

 そうだ。母親もそうだったのかもしれない。段取りが悪いくせに、私や家族のために、せめて年末くらいはおせちを作ってあげたいとか。

 無謀な計画を立てて、結果、焦ってイライラしていた母親。そんな余裕のない母親に対して、「計画性がない」と冷めた目で見ていたけれど、無謀な計画になってしまうほどに、母親は家族に「してあげたい」という愛情を持っていたのではないか。

 そして、この段取りの悪さは、まさに自分と同じ「生きるのがつらい女性」ではないか?

 そう考えるといろいろとつじつまが合ってきます。彼はこう口を開きました。

 彼 「リョウが思っている以上に俺はリョウのことわかっている。だから何にも不安にならなくていいのに」

 リョウさんは、これまで母親の無計画さに振り回されて母親の愛情に気づけなかったこと、彼がすべてわかった上で結婚しようと言ってくれていることに気づきました。

 リョウさんにとって、こんなにうれし泣きした日はありませんでした。初めて自分をすべてさらけ出して、それを受け止めてもらえた夜でした。

 

 こうして彼との結婚に向けてリョウさんは歩み始めます。しかしそのためには、リョウさんはもう一度母親とどんな対話をするといいのでしょうか。次回へ続きます。

 

<お知らせ> 大人のADHDについての新書が出版されました。

 このコラムのテーマである、大人のADHDについて、症状だけでなく、原因仮説や治療法の最前線、認知行動療法による対処、周囲の人にできることなどをまとめました。タイトルは「もしかして、私、大人のADHD?」(光文社新書)です。ぜひともお読み下さい。

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<アピタル:上手に悩むとラクになる・生きるのがつらい女性のADHD>

http://www.asahi.com/apital/healthguide/nayamu/(アピタル・中島美鈴)

アピタル・中島美鈴

アピタル・中島美鈴(なかしま・みすず) 臨床心理士

1978年生まれ、福岡在住の臨床心理士。専門は認知行動療法。肥前精神医療センター、東京大学大学院総合文化研究科、福岡大学人文学部、福岡県職員相談室などを経て、現在は九州大学大学院人間環境学府にて成人ADHDの集団認知行動療法の研究に携わる。他に、福岡保護観察所、福岡少年院などで薬物依存や性犯罪者の集団認知行動療法のスーパーヴァイザーを務める。