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 行きつけの美容院から、突然の閉店を知らせるはがきが来た。娘の住む大阪に行くことにしたそうだ。なじみでない新しい所は、ぼくは緊張してしまう。あそこはここはと、妻と話しているうちに、髪は伸び放題。

 休日の朝に、患者さんの家に向かった。九十一歳の患者さんは、二日前から発熱が続く。パーキンソン病でもともと動くのが大変だったのだが、ますます動けず妻が介護に疲れてきた。

 「入院しますか」のぼくの問いに、患者さんは「家がいい」と、きっぱり答える。ぜぇぜぇと、聞いているほうが苦しくなるような呼吸の中での、意思表示は重たい。

 入院するかどうか、家族の意見は割れたまま週末になった。百㌔離れた高知市から長男夫婦も帰ってきた。「これでよくなりますか」と、心配そうに聞かれる。

 遠くから帰ってきた人は、見通しをまず聞きたがる。現場はみんな本人の気持ちを思いつつ、泥まみれになって介護をしている。ぼくはこのひとことにひるんだりはしない。

 「よくなるかどうか、これからはわかりません。皆さんのご意見が大事ですが、本人の気持ちを大切に、休み明けまではこれでやるのも一つです」と、ぼくは答える。いのちのこれからはわからない、本人の気持ちが一番、そして周囲の人の覚悟ではないかといつもこんな場面では思うのだ。

 ぼくはいのちの緊迫した場面でも、だんだん柔らかな顔ができるようになってきた。病院のぴりぴりした無言の中の処置とはずいぶん違う世界だ。声を出すこともはばかられ、まして笑いなどはもってのほかの場面がある。

 勤務医時代のこと。臨終を告げようとした緊張と静寂のその時、ベッドの向かいの看護師さんのおなかが「グググー」と鳴った。誰も笑わず、看護師さんがおなかを押さえて顔が引きつっていたのを思い出す。今のぼくだったら、家族とみんなで大笑いだろう。

 妻の両親を家でみとったのが、いい体験になった。義父は脳梗塞から脳出血をおこして、気管切開、胃ろう、膀胱ろうの中での在宅医療を半年続けた。義母は何回かの脳梗塞で寝たきりになり、管を入れる医療は望まず、自然な流れの最期だった。

 闘ったあとの義父と、踏み込んだ医療は必要ないと意思表示をした義母の最期の、どちらもが本人らしかった。介護の中心になった妻に、やり通したという気持ちが残ったのがうれしい。

 本人の意思、家族の思い、それをいい塩梅(あんばい)に配慮するのがぼくの役目だろう。週が明けたら、改めて本人にどうするかを聞こう。家族の覚悟も確かめよう。

 いのちに接してゆく深さと幅をもう少し求めつつ、医療の現場に立ち続けたい。悠々の流れの四万十川に、背中を押されながら。

 

<アピタル:診療所の窓辺から>

http://www.asahi.com/apital/column/shimanto/(アピタル・小笠原望)

アピタル・小笠原望

アピタル・小笠原望(おがさわら・のぞみ) 大野内科医師

1951年高知県土佐市生まれ。76年弘前大学医学部卒。高松赤十字病院などを経て97年大野内科(四万十市<旧中村市>)。2000年同院長。18年12月から同医師。在宅医療、神経難病などの分野で活躍中。最新の著書は「診療所の窓辺から」(ナカニシヤ出版)。