[PR]

 大野内科の院長の交代を機会に、診察室を移ることにした。ぼくの診療は、もちろん外来も訪問も今まで通り。隠居するつもりはないのだが、院長先生が第一診察室で常に診療するほうがいいので、引っ越すことにした。

 今までの第一診察室には学会出張や家族旅行の時に買ってきた、人形やこけしをたくさん棚に飾ってあった。診察室で患者さんの緊張が少しでもやわらぐような応接間の感じで、威圧するような本やポスターはなるだけ見えないようにしていた。

 休日当番日の診療の合間に、棚から取り出しては新聞紙にくるんで、取りあえず倉庫にしまった。いろいろな物を処分しながら、あの時にこんなことがあったとやっぱり手がとまった。

 在宅での看取りを始めた頃の、患者さんの一覧表が出てきた。この人はこんな、この人はと最期に至る場面がよみがえってきた。「あんたはよう昔のことを覚えているねえ」と、生前の母に感心されていたが、ぼくは患者さんとのやりとりもよく覚えている。

 思い切って、たくさん処分した。一昨年に家を引っ越して、身のまわりの物は少なくしたが、仕事関係もずいぶんすっきりした。

 今度移る第二診察室は裏庭に近く、朝は鳥のさえずりが聞こえる。鳥の声を聞きながらの診察は、自然に抱かれているような気分になる。

 医者二人体制の診療所は、以前のような悲壮感がなくなった。ふたりだと相談ができて、気持ちがとにかく楽なのがうれしい。

 最近、気がついたことがある。若い先生が来てくれてから、患者さんに自分を語る時間が多くなった。

 「母の臨終に間に合わなかったのが今でも残念で心残りです」と、随分前に母親を看取った患者さんがぽつりと言った。抑うつが続く。

 「ぼくは父も母も最期には立ち会っていません。父は妻からのメールが仕事中にありました。母は明け方、兄からの電話でした。ぼくはそれまで両親との時間を大事にして、ぼくのできることはしてきました。最期の瞬間だけが看取りではなくて、その過程だと思うのです。ぼくには悔いはありません。臨終の瞬間にいるかどうかは問題ではないとぼくはずっと思っています」と、ぼくは普通の言葉で言った。臨終に立ち会うことが、看取りだとの誤解は意外と多い。

 妻の母は自宅で、カセットテープの童謡を聞きながら、最期を迎えた。妻はそばで穏やかに母の死をひとりで受け止めた。それも看取り、朝にのぞきに行ったら呼吸が止まっていたのも大往生。病院や施設から連絡があって駆け付けた時には最期を迎えていても、それも看取りなのだ。

 「できることはした」、そう思って残されたぼくたちは、それからを生きてゆきたい。

 

<アピタル:診療所の窓辺から>

http://www.asahi.com/apital/column/shimanto/(アピタル・小笠原望)

アピタル・小笠原望

アピタル・小笠原望(おがさわら・のぞみ) 大野内科医師

1951年高知県土佐市生まれ。76年弘前大学医学部卒。高松赤十字病院などを経て97年大野内科(四万十市<旧中村市>)。2000年同院長。18年12月から同医師。在宅医療、神経難病などの分野で活躍中。最新の著書は「診療所の窓辺から」(ナカニシヤ出版)。