[PR]

 前回は、貧血はないけれども鉄補給が倦怠感を改善させる研究をご紹介しました。WHOの貧血の定義によれば、ヘモグロビン濃度が12g/dL未満の成人女性は貧血とされますが、この12という数字に絶対的な意味はありません。倦怠感をはじめとした症状がまったくなくても、ヘモグロビン濃度11.9g/dLであれば貧血と診断されます。そして、鉄補給によって改善する倦怠感を有していても、ヘモグロビン濃度が12.0g/dLなら貧血ではないと診断されます。どこかで線引きしなければならないので仕方がないのですが、なんだかもやもやします。

 貧血に限らず、健康と病気、正常と異常の境目は思った以上にあやふやです。血圧を考えてみましょう。現在の日本の高血圧治療のガイドラインでは、血圧が140/90mmHg以上から高血圧と診断されます。「現在の日本のガイドライン」というところからもすでにあやふやです。時代や国によって、高血圧と診断されたりされなかったりしてしまうのです。

 高血圧の多くは自覚症状がありません。自覚症状のない人に治療介入するようになったのは医学の歴史の中でもここ数十年のことです。1950年ごろには血圧が高いと心疾患や脳血管障害になりやすくなることがわかってきました。そこで、血圧の高い人に降圧薬を飲んで血圧を下げる臨床試験を行ったところ、脳出血や心不全といった高血圧に伴う合併症が減ることが示されました。これが1960年代の話です。このころから、高血圧が「病気」となったのです。

 降圧薬を開始すべき高血圧の基準は臨床試験の結果から定められます。たとえば収縮期血圧が160mmHg以上の人に治療すると心筋梗塞(こうそく)が減ったという結果が出れば、高血圧の基準は160mmHgになります。けれども、治療介入すべき最適の血圧の基準が160mmHgとは限りません。次は150mmHg以上の人を対象に臨床試験をします。こうして徐々に血圧の基準値は下がってきたのです。

 軽症の高血圧に対しては治療の効果は低くなります。1960年代の高血圧の臨床試験はわずか百何十人かを対象にしても有意差が出ていました。現在の高血圧の臨床試験は大きなものだと何万人もの人を対象にしています。個人における治療の効果は小さく、たくさんの人を対象にしないと差が検出できないからです。また、糖尿病や慢性腎臓病といった他の疾患の有無や年齢によっても結果が変わってきます。

 いったいどこで線引きすべきでしょうか。言い換えれば、どれぐらいの血圧から高血圧と診断すべきなのでしょうか。なかなか難しい問題であることはおわかりでしょう。現代医学を否定する週刊誌の特集では「基準値がそんなに簡単に変わるのはおかしい。製薬会社が薬をたくさん売るための陰謀だ」などと書かれたりしますが、そんなに単純な話ではありません。

 集団を対象にすると高血圧の基準値をどう定めるかは大きな問題です。基準値付近の人の数は多く、線引き一つで患者さんの数は何百万人も変わり、公的医療費や心疾患・脳血管障害の発症数に影響を与えます。ただ、幸いなことに、個人の視点から言えば、基準値ギリギリの軽症の高血圧の人が、薬を飲むべきかどうかはそれほど悩む必要はないかもしれません。なぜなら、薬を飲んでも飲まなくても、個人のリスクはそれほど変わらないからです。ある程度は、「血圧が高いと不安」「薬を毎日飲んで毎月通院するのはのは面倒」という個人の価値観で決めてもらってもかまわないでしょう。主治医とよく相談してください。

《酒井健司さんの連載が本になりました》

これまでの連載から80回分を収録「医心電信―よりよい医師患者関係のために」(医学と看護社、2138円)。https://goo.gl/WkBx2i別ウインドウで開きます

<アピタル:内科医・酒井健司の医心電信・その他>

http://www.asahi.com/apital/healthguide/sakai/

(アピタル・酒井健司)

アピタル・酒井健司

アピタル・酒井健司(さかい・けんじ) 内科医

1971年、福岡県生まれ。1996年九州大学医学部卒。九州大学第一内科入局。福岡市内の一般病院に内科医として勤務。趣味は読書と釣り。医療は奥が深いです。教科書や医学雑誌には、ちょっとした患者さんの疑問や不満などは書いていません。どうか教えてください。みなさんと一緒に考えるのが、このコラムの狙いです。

こんなニュースも