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 アピタルの連載コラム「認知症と生きるには」の筆者で精神科医として認知症に長く関わる松本一生さん。2年間の連載を振り返り、新シリーズへの思いを聞きました。治療が限られる認知症ですが、本人らしく生きられる道があると話します。

2年間を振り返って

――連載では胸に迫るお話はいくつもありました。

 たとえば、自分の接し方がお母さんを事故でなくす引き金になったと、何年も苦しみ続けている女性。認知症の祖母をたたいている母親の姿を見てショックを受け、介護職の道を選んだ女性。忙しさで父の排泄の介護を忘れて大けがを負わせてしまい行方不明になった男性……。

 いずれも、これだけは伝えていきたいと思ったお話なのです。メディアで報じられるような認知症の人への虐待などのようなニュースにはなりませんが、日常の中での家族の葛藤や苦しみといった、こうした出来事は、私のような日々、臨床にかかわる人間しか伝えられないと思うからです。

(「私は母を殺しました」ある認知症の家族の告白 2019年3月15日)

https://www.asahi.com/articles/SDI201903121324.html

(認知症の祖母をたたく母の姿 衝撃受け娘が選んだ道は 19年1月18日)

https://www.asahi.com/articles/SDI201901138245.html

(忙しさで父の排泄介護忘れた息子 自分を責めた後に 18年12月27日)

https://www.asahi.com/articles/SDI201812237195.html

――だからこそ多くの人に響くのですね。

 ハンセン病やエイズなど治療が難しいとされてきた病気には、必ず患者と寄り添う医師の姿がありました。私も、認知症と向き合いながら、患者や家族が生きることの意味合いを見つけられるように手助けしていくのが使命だと思っています。

 講演などで、こうしたお話をするのですが、家族からは、「ほかの人に体験を聞いても、自分にとって、どのように消化すべきか、迷う」といった声も聞きました。患者や家族を支える介護職も認知症についてはあまり習っていません。4月からは、介護職や家族の方が、自分の考え方や行動を決めるのに、手がかりにできるようなお話を紹介できたらと考えています。

認知症を早期に見つけるには

――高齢化社会に伴い、多くの人が家族は認知症になっていないか心配していると思います。早期に察知するにはどうしたらよいでしょう。

 認知症は、家族が気づく場合と、自分自身が気づく場合があります。なぜか最近ものがよくなくなるとか、約束したはずなのに相手がよく間違えているなど、日常生活の中で本人や家族がおかしいと感じることがきっかけになります。代表的な初期症状としては、今が何月何日で、自分がどこにいるかを判断する力(時間的見当識、場所的見当識)、判断力や計算力の低下が主なものです。

 そして、不安感ややる気なくなったなあといった、「BPSD」(認知症による行動心理の症状)があります。

(認知症の初期に見られる症状 17年8月10日)

https://www.asahi.com/articles/SDI201707290623.html

――本人が気づく場合は少ないのでしょうか。

 2016年までに当院で診察した3039人のうち、初診から自覚のあった人は1750人もいました。1年以内に気づくという人も699人いました。

 認知症を自覚する人少なくないという誤解が根強くあります。けれども自覚持つ人決して少なくない。クリニックで医師が「あんたはね、自分でもの忘れを気にしているから大丈夫だよ、ははは」なんて話は一番よくないのです。

(これまでとは違う自分への不安 17年5月11日)

https://www.asahi.com/articles/SDI201705034971.html

――本人が気づいているのであれば、不安でたまらないでしょうね。

 そうですね。自分がどうなってしまうのか心配でたまりません。でもどうか希望を持って欲しい。多くの修道女の行動や脳を追跡調査したデビッド・スノウドンの研究などもありますが、画像上は脳に萎縮などの異常があっても、良質な生活を送ることはできます。

 私は画像検査に頼って診断するのは避けるべきだと考えています。本当にその人に病的な面があるか、本来備わっている個性の範囲なのか、精神科医として、見極めながら、その人にあった治療や介護を判断したいと考えています。

 私はこれまでに7800人の認知症の人を診断してきましたが、どの方もひとりとして同じ形になっていない。治療や介護はぜったいオーダーメイドなのです。

認知症の人の暮らしを守る

――認知症の就労の問題も光が当たるようになってきました。

 以前は、認知症になったとたんに「閑職」などということも珍しくはありませんでした。認知症でも、適性に応じて仕事はできるとぼくらも主張しつづけたせいで、逆に今度はできなくても会社に居続けてもらう、という企業の善意が強すぎるケースもあります。

 「トイレにこもる哀しみ、あの人~私が消えゆく哀しみ」という回にも書きましたが、仕事の重責が本人の苦しみになることもあります。その人が自信なくさない程度の配置転換はやはり必要でしょう。

(トイレにこもる哀しみ、あの人~私が消えゆく哀しみ 17年5月25日)

https://www.asahi.com/articles/SDI201705034973.html

――認知症本人が自ら発信する取り組みも増えてきましたね。松本さんは、10年前から、孤立しがちな認知症の人をつなぐ「本人ネットワーク」づくりに取り組んでこられました。

 患者自らが声を挙げ、理解を広げる活動は広まってきました。たとえば、ひざの悪い高齢者に、走らなければいけないような仕事をさせようとはだれも思わないでしょう。医学的な措置やケアが連携すれば、こうした症状の人にはこれぐらいのことできるのだ、という相場観や暗黙の了解のようなものが社会の共通理念になって欲しいと願っています。

<アピタル:認知症と生きるには・コラム>

http://www.asahi.com/apital/column/ninchisyou/

(聞き手・服部尚