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 明け方、枕元のケータイが鳴った。「主人が死んでいます」、米津さんの妻からの冷静な声だった。

 「すぐ行きます」と、ぼくのほうがあわてて電話を切った。まだ暗い玄関を出ると、この時期には珍しい雨が降っていた。

 四万十川の赤鉄橋を渡り、市街地の黄色の点滅の信号のなかを往診車で急ぐ。米津さんの在宅医療は二十年を超えた。ずっと夫婦ふたりで暮らしてきた。対向車のない道を車を走らせつつ、あわてた気持ちとともに、今までの介護の長さを思っていた。

 米津さんの診察をして、臨終を告げた。妻は冷静だった。「ようここまで生きられた」、いつもの大きな明るい声だった。「先生、お茶でもどうぞ」と、ベッドのそばで、向かい合ってふたりで温かいお茶を飲んだ。

 六十二歳で脳梗塞(こうそく)を起こし、言葉は出ないが意識はあった。気管切開をして在宅医療が始まった。介護保険のない頃のヘルパーさんたちとのやりとり。胃瘻(ろう)を造った頃のあれこれ。新聞社主催の金婚の式典に、車椅子で出席したこと。淡々と振り返る会話が続いた。

 朝の六時になったので、「お友達に電話をして手伝いに来てもらいませんか」と、ぼくが提案した。妻は元看護師だが、八十歳になった。あとの処置は自分ですると言うが、ぼくは友人への連絡を勧めた。電話の操作がうまくゆかず、この時に妻の動揺を初めて感じた。

 米津さんの妻は、ずっと明るく介護を続けた。小さな工夫をしては、報告をしてくれた。介護をしつつ、喫茶店にモーニングサービスを食べに行くのを日課にしていた。

 介護の場面から外れること、緊張をぬくことの達人だった。折に触れて、ぼくに電話をくれた。介護者がケアマネジャーや医療者に遠慮をして自分で抱え込むことがあるが、妻はそこらあたりが絶妙の間合いだった。かかわる人たちの中心に、いつも妻がいた。

 訪問診療に行くと、診察のあとにきまって紅茶とお茶とショートケーキを出してくれた。夕方に、それをごちそうになりながら世間話になった。

 ここ一年あまりは、原因不明の発熱があった。病院では非常識と思われる、あれこれの工夫をしながらここまできた。そして、最期を家で迎えた。

 通夜も葬儀も自宅で行った。ぼくは急な往診があり、通夜の時刻に遅れた。いつもと同じように玄関のチャイムを鳴らすと、大阪に住む息子が出た。部屋には妻と息子だけが残っていた。三人で、また二十年を振り返った。

 お茶と大きなロールケーキを出してくれた。ぼく自身もここでは緊張の少ない時間だったと感じつつ、息子とともにまたしみじみの話になった。

 介護の達人のこの二十年は、一つの作品のように思った。患者さんの自然な最期を、妻は一番ほっとしていた。

 

<アピタル:診療所の窓辺から>

http://www.asahi.com/apital/column/shimanto/(アピタル・小笠原望)

アピタル・小笠原望

アピタル・小笠原望(おがさわら・のぞみ) 大野内科医師

1951年高知県土佐市生まれ。76年弘前大学医学部卒。高松赤十字病院などを経て97年大野内科(四万十市<旧中村市>)。2000年同院長。18年12月から同医師。在宅医療、神経難病などの分野で活躍中。最新の著書は「診療所の窓辺から」(ナカニシヤ出版)。