[PR]

 自分の静脈から心臓までカテーテルを挿入したフォルスマンや、コレラ菌を飲んだペッテンコーファーなど、自分の体で実験した医学者はたくさんいます。他にも、ブドウ球菌に汚染されたケーキを食べて食中毒が起きることを確かめたり、淋病(りんびょう)と梅毒が同じ原因によるものであると証明しようと淋病患者のうみを自分の陰茎に接種したり……。

 ピロリ菌が胃潰瘍(かいよう)の原因であることを突き止めたマーシャルのようにノーベル賞を受賞した人もいた一方で、黄熱病の病原体を媒介する蚊に自分を刺させたラジアのように、自己実験で命を落とした人もいます。自己実験はとくに20世紀前半に多く行われ、少なくとも8人が亡くなっています。

 病気の原因をつきとめたり、ある治療法に効果があるのかどうかを検証したりするには、動物実験だけでは不十分で、どうしても人を対象にした実験や研究が必要です。もちろん、説明や同意なく他人を実験台に使うのは論外です。じゃあ、説明して同意を取ればOKかというとそれだけでは不十分です。現在では、倫理的配慮がなされていない実験や研究は許されていません。説明や同意の他にさまざまな条件があります。

 ヘルシンキ宣言では「人間を対象とする医学研究は、その目的の重要性が被験者のリスクおよび負担を上まわる場合に限り行うことができる」とされています。目的の重要性が小さい場合は、いくら被験者の同意を得たとしても、人を対象にした研究はできないわけです。

 ただ、研究を行いたい医学者は「重要だ」と主張するに決まっていますから、研究の重要性を客観的に評価する必要があります。普通は研究者とは独立した倫理委員会から承認を得ることになります。それでは自己実験にも倫理委員会の承認は必要でしょうか? 自分の判断だけで研究者が自己実験を行うことは倫理的に許されることでしょうか?

 自分の体のことだから他人に迷惑をかけない限り自由だという考え方もあるでしょう。自分の研究ならリスクも重要性も他の誰よりもわかっているはずです。倫理委員会に諮る時間を節約してすぐに結果を知ることもできます。一方で、無制限に自己実験を行うのは容認できないという考え方もあるでしょう。研究者は自己実験の成功によって、ときにはノーベル賞といった大きい利益を得ます。きわめて強い利益相反の当事者とも言える研究者が、リスクの大きさを見誤らないとは限りません。また、上司からの圧力で若手研究者が望まない自己実験を強いられるかもしれません。

 自己実験の是非については専門家の間でも議論があるようです。複雑な問題です。

 ※参考:Hanley BP et al., Review of Scientific Self-Experimentation: Ethics History, Regulation, Scenarios, and Views Among Ethics Committees and Prominent Scientists., Rejuvenation Res. 2019 Feb;22(1):31-42.(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/29926769別ウインドウで開きます

《酒井健司さんの連載が本になりました》

これまでの連載から80回分を収録「医心電信―よりよい医師患者関係のために」(医学と看護社、2138円)。https://goo.gl/WkBx2i別ウインドウで開きます

<アピタル:内科医・酒井健司の医心電信・その他>

http://www.asahi.com/apital/healthguide/sakai/(アピタル・酒井健司)

アピタル・酒井健司

アピタル・酒井健司(さかい・けんじ) 内科医

1971年、福岡県生まれ。1996年九州大学医学部卒。九州大学第一内科入局。福岡市内の一般病院に内科医として勤務。趣味は読書と釣り。医療は奥が深いです。教科書や医学雑誌には、ちょっとした患者さんの疑問や不満などは書いていません。どうか教えてください。みなさんと一緒に考えるのが、このコラムの狙いです。