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2012年11月27日
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はたらく気持ち

「リセット」を考えたけれど

文・田中和彦

 証券会社の営業職Sさん(24)は、電車に揺られながら「やっぱり、リセットすべきなのかな」と考えていた。入社2年目研修のため、勤務先の北関東の支店から東京の本社に向かっていた。風邪らしき悪寒に襲われながら彼女の頭に浮かんだ「リセット」には、二つの意味があった。一つは会社を辞めること。もう一つは、付き合っている彼との関係を見直すことだ。

 直前まで上司から「お前には研修に出る資格なんてねえぞ。売るもの売ってから行け!」と罵倒されていた。過去にパワハラで何度も人事から警告を受けている上司だが、そんなことはお構いなしに、激しい言葉を投げてくる。

 ノルマのない1年目はまだ見習い的な立場だった。個人目標が設定された今年4月以降、月間のノルマを達成したのは、支店への飛び込み客をお情けで譲ってもらえたときの1回だけ。「なぜ、こんな大変な業界で働いてるんだろう」と自問する。しかし「給与も高く安定した金融業界なら、彼を養っていける」と選んだのは自分自身だった。

 Sさんが地元京都の私大に進学してすぐに付き合い始めた彼は当時4年生。すでに大学院に進むことが決まっていた。穏やかさだけが取りえの典型的な理系の草食男子。3年前のSさんの就活時に「このまま大学に残って勉強したい」と打ち明けられた。「じゃあ、私が稼ぐか」と今の会社に入社した。

 勤務地は関西だろうと高をくくっていたが、配属されたのは行ったこともない北関東の中規模都市。遠距離恋愛が始まり、携帯は通話し放題のプランに変えた。なのに、最近では長く話すことも減ってきた。彼の話題は浮世離れしていて、株価をにらみ、客とお金の話ばかりする自分とは世界が違う。仕事の悩みを相談しても反応が薄い。「本当に彼のこと好きなのかな」。そんな思いが募っていった。

 2泊3日の研修で、久しぶりに多くの同期と再会した。厳しい環境下で誰もがもがき苦しんでいた。自分だけじゃなかった。社内講師の「一度逃げたら、後々、逃げの人生になってしまうぞ」という言葉も妙に心に刺さった。

 研修明けの週末、風邪で寝込んでいると、心配した彼が夜行バスでやってきた。京都のスーパーで買ってきた鍋の具材を持って。「ネギむき出しでバスに乗ったわけ?」とあきれたが、彼は黙々と鍋を作ってくれた。

 「味薄い。へたくそ!」。そんな悪態をつきながら、あふれる涙を悟られまいとティッシュで鼻をかんだ。「もう少し頑張ってみるか」。リセットボタンから指が離れた。

プロフィール

田中 和彦(たなか・かずひこ)

 人材コンサルタント、映画プロデューサー。1958年、大分県生まれ。リクルート社の「週刊ビーイング」「就職ジャーナル」などの編集長を務めた後、映画業界に転身。キネマ旬報社代表取締役などを経て独立。02〜07年、beでコラム「複職(ふくしょく)時代」を連載。近著『断らない人は、なぜか仕事がうまくいく』(徳間書店)など著書多数。

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