広告会社のプランナーMさん(34)は、ネット上のある記事を読んで、息苦しくなった。著名人の女性が、飛行機の中で泣き叫ぶ赤ちゃんに我慢できず、母親に注意したことを、識者が「赤ちゃんは泣くのが仕事なのに」と非難していた。実は7年前、Mさんも同じ「赤ちゃんは……」との言葉を投げかけられた経験があったのだ。
2年近く付き合っていた彼と、年末年始にヨーロッパ旅行に出かけた。お互い結婚を考えていたからこその初めての長期旅行だった。
飛行機の座席の斜め前に赤ちゃんを抱いた母親がいた。フライトの途中、機体が激しく揺れ、赤ちゃんが泣き始めた。母親があやすのだが、長時間泣きやまなかった。
目的地に近づき、母親が申し訳なさそうにトイレに立つと、Mさんは「眠れなかったなあ」とつぶやいた。「向こうでゆっくりできるさ」と彼。隣の老婦人も「赤ちゃんは泣くのが仕事だから」と声をかけてくれた。しかし休みをとるため過重な仕事をこなしてきたうえ満足に眠れず、楽しみにしていた旅行に水を差された気がした。老婦人の言葉を素直に聞けず、Mさんは「私、赤ちゃんの泣き声ダメなんです」と応えた。
現地では体調を崩してしまい、旅行は楽しいものではなかった。しかも帰国すると、彼から突然別れ話を切り出された。理由を尋ねても「ごめん」の一点張りだった。
しばらく引きずっていたが立ち直りかけた1年後、共通の友人から「子供に対する価値観の違い」という彼の本心が耳に入ってきた。ガツン、と殴られたような気がした。一生立ち直れないと思うほど落ち込んだ。
何げないひと言が命取りになると思い知り、「赤ちゃんは泣くのが仕事」という言葉が胸に刻まれた。その後、Mさん自身も、この言葉を口にするようになった。
担当するイベントに、赤ちゃん連れの親が来ることがある。赤ちゃんは泣くものだし、親がコントロールできるものでもない。今は素直にそう思える。泣き声に困惑する若いスタッフに「泣くのは仕事だよ」と言って聞かせたのである。
ある授賞式で、表彰される夫の姿を一目見ようと出席した奥さんが、赤ちゃんのむずかるのに手を焼いていた。赤ちゃんをそっとスタッフルームで預かり、晴れ姿を見てもらったこともある。
彼と別れたことについてMさんは「未練はありません」とキッパリ。ただ、そう言いながら「この記事、元彼にも読んで欲しいな」と微妙な心の内をのぞかせた。
人材コンサルタント、映画プロデューサー。1958年、大分県生まれ。リクルート社の「週刊ビーイング」「就職ジャーナル」などの編集長を務めた後、映画業界に転身。キネマ旬報社代表取締役などを経て独立。02〜07年、beでコラム「複職(ふくしょく)時代」を連載。近著『断らない人は、なぜか仕事がうまくいく』(徳間書店)など著書多数。