現在位置:
  1. 朝日新聞デジタル
  2. ニュース
  3. ビジネス・経済
  4. コラム
  5. はたらく気持ち
  6. 記事
2012年12月18日
このエントリーをはてなブックマークに追加
mixiチェック

はたらく気持ち

越権行為だって勲章になる

文・田中和彦

 中古物件専門の不動産会社の営業マンFさん(30)は、自分が担当する物件はまず自らパソコンでチラシを作る。そして「半径50メートルに必ず見込み客は存在する」という考え方に基づき、物件の周辺に自分の足で配る。

 バイトに任せないのは、自分の勘を養うためでもある。歩いて回り、「ここに居そうだな」と感じたマンションの住人から、問い合わせが来ることも多いらしい。

 真面目を絵に描いたような人柄だが、実は、真面目さゆえに苦しんだこともあった。

 札幌出身のFさんが、地元の大学を卒業して上京し、最初に就職したのは、先物取引の企業。一流の営業マンを目指して入社した。しかし強引な営業方針で、頑張れば頑張るほど顧客からのクレームが増えた。信頼の切り売りのような仕事に疑問が湧き、約1年、葛藤が続いた。

 「もうこれ以上無理」と思い始めたとき、会社は解散。社員寮にいたFさんは、土地勘もなく家探しを始めた。

 賃貸専門の不動産会社に問い合わせると、同世代の新人女性社員が必死に家を探してくれた。限られた時間の中、やりくりして物件を次々と紹介するひたむきな姿勢に心動かされた。今の会社に再就職したのも、彼女を見て「こんな仕事もいいな」と思ったからだ。

 不動産の営業と一概に言っても、賃貸から新築、中古、事業用と扱うものは幅広い。Fさんは実際にやってみて、中古物件の担当が好きだと実感した。

 新築の顧客は買う側だけ。ローンが組める分、未来の幸せを前提にした人たちだ。しかし、中古は売る側も顧客になる。売る理由も多様で、必ずしも前向きな話ばかりではない。事業に失敗し、抵当に入っていた自宅を泣く泣く手放す人もいる。営業マンは相場の金額を見積もり、どれくらいの期間で成約させたいかを聞き、最悪の中での最善の選択に尽力する。

 借金返済に切羽詰まって自宅を売りに出した顧客の1人は、契約を終えると「ありがとう」と握手を求め、目は涙であふれていた。返済のめどがついた安心感と、将来への不安とが混ざった涙だった。

 この仕事の喜びは「誠実に対応すれば、その後も必ず声が掛かる」こと。顧客から知人を紹介されることも多く、「Fさんにお願いしたい」と頼られればどこでも駆けつける。築いた信用が次の仕事を生んでくれるのだ。前職では得られなかった喜びで、勤務先の支店のテリトリーを越えて、自分の仕事のエリアが広がる。そんな越権行為もこの業界では勲章なのだそうだ。

プロフィール

田中 和彦(たなか・かずひこ)

 人材コンサルタント、映画プロデューサー。1958年、大分県生まれ。リクルート社の「週刊ビーイング」「就職ジャーナル」などの編集長を務めた後、映画業界に転身。キネマ旬報社代表取締役などを経て独立。02〜07年、beでコラム「複職(ふくしょく)時代」を連載。近著『断らない人は、なぜか仕事がうまくいく』(徳間書店)など著書多数。

PR情報
検索フォーム


朝日新聞購読のご案内
新聞購読のご案内 事業・サービス紹介