大久保真紀編集委員が日本記者クラブ賞を受賞

 2021年度の日本記者クラブ賞が、朝日新聞の大久保真紀編集委員(57)に贈られることが決まりました。

 大久保編集委員は1987年入社。中国残留日本人孤児や虐待を受けた子ども、性暴力被害者などの取材を幅広く手がけています。住民ら12人が公選法違反の罪に問われた鹿児島県の志布志(しぶし)事件では、総局デスクとして総局長とともに取材を指揮し、捜査当局による事件の捏造(ねつぞう)を明らかにしました。

 今回の受賞では、さまざまな社会的弱者の実態を長期にわたり取材して記事や著作で報じ、児童養護施設にのべ80日間泊まり込むなど現場主義を貫き、信頼関係を築いて当事者の肉声を伝えてきたことが評価されました。

 また、「取材対象に『限りなく近く、しかし、同化せず』の基本姿勢や粘り強い取材は時代を超えたジャーナリズムの原点で、後進の目標になる業績」という点も授賞理由に挙げられました。

 大久保編集委員は「現場で出会った方々に教えられ、鍛えられ、いまの私があります。手紙をいただくなど読者のみなさんにも支えられてきました。今後も、真摯(しんし)に愚直にあきらめずに、取材・報道に取り組んでいきたいと思います」と話しています。

 授賞式は5月24日に行われます。

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日本記者クラブ賞の受賞が決まって 編集委員 大久保真紀

 日本記者クラブ賞を受賞することになり、身の引き締まる思いでいます。歴代の受賞者は著名なコラムニスト、テレビキャスター、海外特派員などが名を連ねています。その末席に、私のような者を加えていただいたことに、ただただ恐縮するばかりです。

 特別な能力や明晰(めいせき)な頭脳をもっているわけではありません。愚直にこつこつと取材を続けてきただけですが、その成果を評価していただいたことに心から感謝申し上げます。

「知ってしまった者の責任」を感じて


 私が長年取材してきた多くは、日米同盟や政治家の汚職事件など一面トップで扱われるような分野ではありません。私自身は新聞報道の本流とは違う道を歩んできたと思っています。理不尽な社会の中で、懸命に生きる人たちに吸い寄せられるように、取材を続けてきました。現場で出会ったそうした方々に教えられ、鍛えられ、導いていただいて、いまの私があります。

 原点は、中国残留邦人と呼ばれる、中国残留日本人孤児と敗戦当時13歳以上だった中国残留婦人たちの取材にあります。

 1990年、26歳のとき、私は二つめの支局、静岡支局にいました。戦後45年という節目の年の夏、自分で提案し、静岡県版で「おんなたちの八・一五」と題した連載を10回やりました。

 その中で、すでに帰国を果たして静岡県内に暮らす残留孤児や残留婦人たちを取りあげました。読者からの反響も大きく、その秋に、中国・東北部への出張を、支局長から許されました。

 天安門事件から1年後のことで入国すること自体に苦労が伴いましたが、何とか入り、列車や車を乗り継ぎ、黒竜江省、吉林省を回りました。祖国・日本に帰りたくても、親族の反対などで永住帰国できない残留邦人が当時はまだたくさん中国にいました。

 残留婦人は敗戦前後の混乱で、生きるために、きょうだいや子どもを生かすために、中国人女性も嫁に来ないほど貧しい中国人農家の嫁に入った人が大半です。90年に私が彼女たちの家を訪れたときも、生活は苦しい方が大半でした。水道も電気もなく、土壁で、窓にはビニールが張られている家もありました。

 飛行機で海を渡り、大陸内を列車や車に揺られ、彼女たちの住まいまで2日も3日もかけて移動しなければならなかった取材の中でまず感じたのは、半世紀も前によくこんな奥地まで、日本政府は満蒙開拓団を送り込んだものだということでした。また、生活を目の当たりにして、彼女たちが「日本に帰りたい」と思うのは当然のことだと思いました。

 90年当時は中国には未開放地区といって外国人記者である私が立ち入れない区域もありました。そんな超がつくほどの田舎に暮らす静岡県出身の残留婦人・紅林(くればやし)ことさんへの取材を申請すると、吉林省政府は彼女を省都・長春に呼んでくれました。

 67歳の紅林さんは背丈が私の肩ほどしかない小柄な女性で、次男を伴って現れました。聞くと、次男の自転車の荷台で1時間半揺られてバス停にたどり着き、そこから7時間かけてバスに乗ってきたというのです。

 往復の旅費はこちらが出すとはいえ、そんなに苦労して来てくださるとは思っていなかったので、「ご苦労をおかけして、本当に申し訳なかったです」と頭を下げました。

 すると、彼女は「きょうは日本語が話せるからうれしいよお。それに長春は初めてだからね」と言ってくださいました。そして、「(泊めてもらえるホテルで)10年ぶりに風呂に入れるのがありがたい」とも。貧しい農村に暮らす彼女の生活は厳しく、風呂の湯船につかれるのは日本に一時帰国したときだけだと打ち明けてくれました。

 ズボンは着ている一着しかないことも教えてくれました。夜洗濯し、朝は乾いていなくてもそれを着るのだと言うのです。

 実は私は、中国残留孤児の問題は新聞記者になる前から、「もし記者になることができたなら取材をしたい」と思っていたテーマでした。残留孤児を取材する中で、残留婦人たちの存在を知りました。そして、実際に彼女たちの暮らす中国を訪れ、私がいかに無知だったか、現実を知らなかったかを思い知らされました。

 当時の静岡県版には毎日、記者たちが自分の取材の経験や思いをつづった小さな欄がありました。中国で取材した残留婦人たちのことを県版で8回にわたって連載している最中の90年11月20日、私はその欄にこう書きました。

 取材は胸を締め付けられる思いの連続だった。ある残留婦人は言った。「話すことも本当はみじめでいやなのです」。彼女たちのことを書いてはいる。しかし、私は直接何かをしているのだろうか。ふと立ち止まる。読者の方からお電話をいただいた。「手紙を書きたい。住所を教えて」。いつも当事者にはなれない記者という仕事の寂しさを支えてくれるのはこういう声だ。何かを感じてもらえるなら、少しでも多くの人に彼女たちのいまを伝えたい。

 私はこの中国の旅で「見た者の責任」「知ってしまった者の責任」を強く感じました。そして、「新聞記者として今後も伝えていかなくてはならない」ということを自分に誓いました。

1500通の読者の手紙に支えられて

 その後、91年春に東京本社の社会部に異動しましたが、そのころには中国残留邦人の問題はすでに過去のこととして、朝日新聞を含めどの新聞もあまり扱わなくなっていました。それでも、「知ってしまった者の責任」として、あきらめずに取材を続け、記事を書いてきました。

 社会部に来てからは取材する分野も広がりました。担当の仕事をする一方で、フィリピン残留日本人2世や買春の被害者であるアジアの子どもたち、虐待を受けている日本の子どもたち、社会からの差別・偏見に苦しんできた遺伝性難病・家族性アミロイドポリニューロパチー(FAP)の患者や家族、などの話をひとりで取材してきました。いずれも、上司からの指示ではなく、私自身が取材で出会った方々に教えていただき、勉強会などで問題があることを知り、自分でこつこつと時間を見つけては取材をして、なんとか紙面化にこぎつけてきたものです。

 2019年12月から、仲間と一緒に連載をしている「子どもへの性暴力」シリーズもその延長線上にあります。子どもへの性暴力の問題は20年前に一度取材をしましたが、私が未熟だったこともあり、結果的に紙面化できなかったテーマです。

 初めにお伝えした通り、私が追いかけてきたのは、華々しいテーマではないですし、大事件や大事故のように紙面に絶対に載る出来事ではありません。紙面化するのは、苦労の連続でした。

 しかし、そうした中で取材を続け、記事を出稿してこられたのは、読者の方々から私あてに届く多くの手紙やはがき、ファクス、最近ではメールがあったからです。

 自宅の居間に四半世紀以上、置いている写真立てがあります。そこには、95年6月16日に届いたはがきを入れてあります。

 差出人の名前が書かれていないはがきは、「貴女(あなた)の記事を拝読しています」の文面で始まり、91年~95年に私が書いた三つの署名記事について触れた後、こうつづられています。

 「他に気づかなかった記事もあるかもしれませんが、いずれも優しいお気持ちがいっぱいにあふれていて感動しました。今後も弱者の立場に立ってさまざまな問題を取り上げてください」

 だれよりも私の記事を読んでくださっている、とそのはがきを手にしたときは、心が震えました。

 私はこうした読者のみなさんの声に支えられ、背中を押されて、記者活動を続けることができたと言っても過言ではありません。自宅のファイルを調べたところ、確認できただけで1500通を超える私あての手紙やはがきがありました。

 私自身が、そして新聞が、読者のみなさんに支えていただいていることに、改めて感謝を申し上げます。

 また、私の提案したテーマに理解を示してくれたデスク(デスクが原稿を見て紙面化の責任をもちます)、原稿をチェックする校閲センター、そして、見出しをつけて記事を組むコンテンツ編成本部、記事につく写真を撮影してくれる映像報道部のみなさんにもお世話になりました。新聞を配達する販売店の方々にも支えられています。多くの先輩、仲間にも助けられました。

 私は新聞記者として特別なことは何もしていません。そんな私だからこそ、今回の受賞が、新聞記者として働く若い仲間たちの励みになれば、大変うれしいです。

 新聞が置かれた状況は年々厳しくなってきています。いずれは紙ではなく、デジタルがメインになる時代になるでしょう。しかし、どんな時代になっても、記者の仕事は変わらないと考えています。

 読者のみなさん、厳しい目をもちつつも、私たち記者にエールを送っていただけないでしょうか。みなさんの声は、新聞が本来の使命を果たすのに大きな力となります。

 「伝えたい」。私を突き動かしてきたその思いを胸に、これからも真摯に、愚直に、あきらめずに取材・報道を続けていきたいと思います。

 ありがとうございました。