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週刊人間国宝
芸能 歌舞伎(2)

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もっと知るために

【みる・きく・しる】菊五郎の人と芸

写真
三代目尾上菊五郎(左)が描かれた錦絵
「見立忠臣蔵」 三段目 五渡亭国貞画 1818〜29年頃=写真提供・国立劇場

 家元制度をもたない歌舞伎は「家の芸」が名跡によって継承されてきた。歌舞伎十八番の市川團十郎家に拮抗する音羽屋の家と人と芸の流れをみてみよう。

 ◇

 いまの尾上菊五郎は七代目になるのだが、多くの人が当代に抱く印象はどんなものだろうか。

 (1)白塗りの化粧が似合ういい男

 (2)江戸前の粋でイナセな役の数々

 (3)女方も立役も自在にこなす芸域の広さ

 といったところが一般的だろうか。江戸歌舞伎にあって市川團十郎家の「剛」に対して「柔」の役回りが菊五郎家で、その家風は初代から連綿といまに伝えられている。

 初代菊五郎は京都の人だが、1742年(寛保2)、江戸から上った市川海老蔵(二代目團十郎)が初演した『雷神不動北山桜』で海老蔵の鳴神上人の相手役雲の絶間姫が大好評で、これが出世役となりこの年の冬には海老蔵に伴われて江戸に下った。菊五郎25歳のことだった。その後、立役に進み「花実相対の大立者」と称えられた。

 二代目は初代の子だが、わずか18歳で早世した。三代目は菊五郎家初の江戸者で、小伝馬町の建具屋の子。幼少から初代の高弟、初代尾上松助の養子となり、1788年(天明8)、栄三郎を名乗って初舞台。1809年(文化6)、養父の初代松緑改名に伴い二代目松助を襲名、三代目梅幸を経て、1815年(文化12)、菊五郎の三代目を襲名した。立役から女方、実悪までと芸域が極めて広く、『先代萩』の政岡と仁木、『鏡山』の岩藤とお初など対照的な役で好評を博しているが、最も得意としたのは『忠臣蔵』の判官・勘平、『菅原』の菅丞相・桜丸、『千本桜』の権太・忠信などのほか世話物の『お祭佐七』、大工六三郎などの江戸前の粋な立役など、いずれもその演出が後世の菊五郎に伝えられ音羽屋の芸脈の骨格をなしている。

 一方養父譲りの特技であった早替わり物や怪談物、宙乗りや本水などのケレンの演出も得意で、初演時に勤めた『四谷怪談』のお岩・小平・与茂七の三役はその代表である。抜群の美貌と技芸に絶大な自信があり、鏡に映る自分の姿を見て「俺はなんていい男なんだろう」と独白して嫌みがなかったという。

 三代目の女婿で梅幸時代が長かった四代目は女方で芸系からは少し外れる。

 音羽屋の芸系を完成したのは五代目菊五郎であった。十三代目市村羽左衛門から1868年(明治元)8月に五代目を襲名し、以来59歳で亡くなる1903年まで、九代目團十郎と共に新時代明治歌舞伎の屋台骨を支えた。祖父三代目が開拓した音羽屋の芸風を「家の芸」として確立し、その名は歌舞伎界に揺るぎないものとなった。激動の明治を乗り切り、歌舞伎を今日に伝えた業績は不滅であり、團十郎家の「歌舞伎十八番」に対抗して「新古演劇十種」を制定して江戸歌舞伎の広がりを示した。

 近代の名優として名高い六代目は五代目の子で、祖父・父譲りの音羽屋の芸系に團十郎直伝の肚芸を加味し、歌舞伎の近代劇化を図ると共に、新作歌舞伎を積極的に舞台にかけ歌舞伎の裾野を広げた。近代を代表する天才俳優で、その影響は濃密に現代に及んでいる。

織田紘二 国立劇場芸能部長 1945年、北海道生まれ。國學院大学卒業後、国立劇場で歌舞伎及び新派、古典芸能の制作・演出に携わる。著書に『ぜんぶ芸のはなし』などがある。

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2006年08月29日

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